スフィンクスゲーム~クルディスタンから来たニート~(愛される資格 ~いつの日も汝の上に~より改題) あらすじ
この戦争はまさしく、口撃力と攻撃力の戦いであった。念願の京都大学に合格した織河七海は入学式の日、考古学部の部室を訪れる。そこで出会ったのは十崎という掴みどころの無い男だった。七海は首尾よく入部したものの、先輩からのネチネチとしたイジメに悩まされる。
その窮地から七海を救い出してくれたのが十崎とその仲間のならず者にしか見えない九城という男だった。
交友を深める3人を余所に、イラク北部からウルと呼ばれる女が来日する。目的は、ウルがボランティアとして滞在する村の者が以前贈った遺物を
十崎から買い取ること。十崎はかつて、イラクで冥府からの声と呼ばれた、暗殺者だった。違法な遺物の取引に手を染めている
彼を見張るために米軍に雇われ、派遣されていたのがイラクで狂犬と恐れられた傭兵、九城であり、ウルの来訪を期に全てが七海に露見する。
この戦争はまさしく、口撃力と攻撃力の戦いであった。念願の京都大学に合格した織河七海は入学式の日、考古学部の部室を訪れる。そこで出会ったのは十崎という掴みどころの無い男だった。七海は首尾よく入部したものの、先輩からのネチネチとしたイジメに悩まされる。
その窮地から七海を救い出してくれたのが十崎とその仲間のならず者にしか見えない九城という男だった。
交友を深める3人を余所に、イラク北部からウルと呼ばれる女が来日する。目的は、ウルがボランティアとして滞在する村の者が以前贈った遺物を
十崎から買い取ること。十崎はかつて、イラクで冥府からの声と呼ばれた、暗殺者だった。違法な遺物の取引に手を染めている
彼を見張るために米軍に雇われ、派遣されていたのがイラクで狂犬と恐れられた傭兵、九城であり、ウルの来訪を期に全てが七海に露見する。
「なあ……この体たらくはなんだ?」
ウルは、断続的に伝えられる衝撃を、こらえるため天井に手を、前方のシートに膝をつっかえさせて聞いた。
二台の四駆が、後ろからクラクションを鳴らしながら迫り、時折バンパーをぶつけてくる。片側一斜線の一般道を、西に向かって三台は走り続けた。マスードの運転は、年齢に似合わず巧みで、前方に回りこまれるのをうまく防ぎながら、七〇km/h台をキープし続けた。
「すまん、客人。全てわしのせいだ」
「そうだな、お前達のせいだ」
幸が、不満げにこちらを見たが、ウルは冷たく燃える怒りの視線で迎えた。
「降りる。車を止めろ」
ウルは、低い声で言った。
幸が白けたように言った
「眼と耳ついてるか? 今車止めたら、パンティ共に、よくて粗末な股間のブツで穴だらけ、悪けりゃ殺されるぜ」
「それは私のせいか?」
怒気を孕ませて、ウルが幸に言った。
「あいつらにそう言や、見逃してくれるかもな」
幸が、能面で答えた。
「どのみち、今回の計画は無しだ。ポリスが絡んでくる」
ウルは横を向いて、吐き捨てた。
交通量が減ってきた。まるでわざわざ寂しい方にむかっているかのようだ。
「いや、客人。それはない。アラーに誓って言える……サイヤーラが依頼を受けたんだ。 今夜のトラブルはなかったし、奴らはこの世に存在しなかったも同然になる。」
「これ以上、おかしな犯罪に関わるのはごめんだ。降ろせ」
「おいおい」
幸が、あきれたように振り返った。
「イラクくんだりからここまで、愛と平和でも説きに来たのか? 僕たちゃ、陽気でおしゃまな密輸団だ。とっくに、あんたは犯罪者なんだよ」
「違う。お前達といっしょにするな」
ウルは語気を強めた。
「客人。あなたはただ、話を持ちかけるためにこの地へ来ただけだ。何の法律も犯してないし、わしらとは無関係。行き先が同じじゃから同乗させただけだ。と、同時に今この車から降りられても、交渉から降りられてもわしの面目は丸つぶれになる。そこでだ」
マスードは、反対車線へ回り込んできたメタルブルーのハイラックスを、ちらりと見た。巨漢が、折れてないほうの手に握った木刀を窓から突き出して、屋根に叩きつけてきた。耳を聾する金属音に、ウルは顔をしかめて、そそくさと反対側の席に尻をずらす。
マスードは、ハンドル操作で距離をとりながら、淡々と続ける。
「取引しないか? 金じゃないが、君が喉から手が出るほど、欲しがる物をやる」
「それは、興味深いな」
ウルは、窓の外に目を向けたまま、興味なさげに言った。コートの下では油断なく、柞の木を握り締めている。
「君の住んでいる村の辺りは治安が悪そうだな。わしはあのあたりに顔が利く。わしが言えば、おそらくスンニー派の襲撃に関しては、止まるだろう。」
ウルは一瞬驚いたが、まなざしに疑いの色を濃くして聞いた。
「あなたは、イラク人ではないだろう?」
「イラクの北部には、アフガンからの民兵が、多く流れ込んでいる。知っているだろう、過激派と呼ばれる連中はほとんどが、外国から紛れ込んできたイスラム教徒だ。それに、あのあたりの部族長たちとは親しい。可能だ」
木刀が、屋根を叩く音でうるさい。
「私はそれを、どうやって確認すればいい?」
ウルは半信半疑で、問うた。
「そうだな、ミズはシレルキャンプから来たといっていたか。ハシムの小僧はどうしておる? アフガンの戦闘に、参加しに来たときは、初陣でがたがた震えておった。いっしょにおった眼鏡の小僧……名前は忘れたが、頭の良い奴だった。二人とも、基地内でアイスクリームを食わせてやったら、あまりのうまさに叫び声をあげておった」
「ハシム師と、アリさんを知っているんですか?」
ウルは思わず、驚きの声をあげたが、
「師?……こいつは、驚いた。わしも年をとるはずだ」
話しながらも、マスードは、鋭くハンドルを切る。
対向車がやってきて、ハイラックスは、やむなく元の車線に戻った。
「マス爺、とっつ……いや、サイヤーラは、いつ来るんだ?」
幸が、じりじりした口調で聞いた。
「もうそろそろ落ちあうころだ。客人、あとでハシムに、連絡を取ってみるといい。マスードが、つぎに会ったときは、ストロベリーアイスをご馳走してやると言ってたのを覚えているかとな」
「今の話を……」
「アラーに誓う。取引の話に乗ってくれるかな?」
ウルは、スカーフから覗く両目を、煌かせながらいった。
「そういう話なら、願ってもない……それに」
ウルはコートの下から、ゆっくりと柞の棒を抜き、胸の内で語りかけた。
友よ、目を覚ませ。
「いい加減、駄犬どもの鳴き声には、うんざりしていたんだ」
ノラ犬狩りの時間だ。
ウルは、コートを脱いで膝の上にかけ、得物を隠した。
「イヌどもの、運転席に寄せろ」
「おお、かっけー。急にやる気になったなあ 姉さん」
感極まったような、幸の嬌声を無視して、ウルは、タイミングを計ることに神経を集中した。
かなり凹凸になった軽が、対向車線に入り、スピードを落とした。徐々にウルの座っている助手席側の後部座席が、ハイラックスの運転席に近づき、運転席の男が、興奮した表情で、ウルに向かって何かをわめき散らした。
並んだ。
武器を握り締める、右の二の腕の筋肉が膨れ上がる。左手は添えるだけ。
「窓を開けろ」
言われたとおり、マスードがウルの左側面の窓を開けた。
正義は我にあり。
愚かなことに、相手の男も、運転席の窓を開けた。
バカが。
「ぜええええええいっ!」
裂帛の気合と共にくりだされた、ウルの渾身の突きが、開きかけた男の口に飛び込み、前歯の大半をへしおった。
運転していた男は、陸に揚げられた魚のように痛みに暴れ、道路から逸れたハイラックスは、竹林に突っ込む。
「……すげえ」
幸が、やっとそれだけをつぶやいた。
「後一台だな。寄せろ」
ウルは、何事もなかったかのように次の指示を出した。
「……客人。唯乗っていてくれてるだけでええんじゃが」
マスードが、言いにくそうに言った。
「……そうなのか」
ウルが、きょとんとした顔で聞き返した。
「あれ、生きてるかな」
バックミラーを見て、幸が不安そうにつぶやく。
ウルは構えを解き、スカーフの下で皮肉っぽく口元を歪めた。
「お優しいことだな。殺したいんじゃなかったのか?」
幸がむっとして、シートの隙間からこちらを睨んだ。
「勘違いするんじゃねーよ。死体が出たら、後始末に費用がかさむんだ……にしても迷いねーな、あんた」
「やるときは、絶対に躊躇うな。剣術の師匠の厳命でな」
ウルは、棒に付いた血を、車内のティッシュでふき取りながら答えた。
マスードが、やれやれと言った感じで尋ねる
「反射的に、言われたとおりにしちまったが……喉をついたのか?」
「口の中だ。前歯が何本か折れたろうな。まあ、死んだとしても、お互い覚悟の上での勝負だ」
「いや、向こうは明らかにしてねーだろ」
幸が突っ込む。
「エアバッグがあるから、死んではいないだろうが……あまり現場を広げると、サイヤーラが苦労する……驚いたの、まだ追ってくる」
もう一台の、臙脂色のハイラックスは、止まることなくついて来た。
あちらも、常軌を逸している。
「で、どうする。座っているだけでいいなら、ありがたい」
幸の携帯が、流行のポップスを歌いだした。
「……電話……。サイヤーラ! ……ハイ、幸。え、そっちから見えるの? どこ?そう、後の赤茶色の四駆。一台はやっつけた。で、どこにいるのさ?」
竹林に囲まれ、ぽつぽつと街灯があるだけの、交通量の途絶えた片側一車線の道に、二台の車の走行音が響く。
「どこ? わかんねえよ。え、次の曲がり角?」
ぼろぼろになった軽が右折可能な道を、通り過ぎた瞬間だった。
ライトを消した、四角い車が横合いから、獲物に襲いかかるかのように、サーフの後部にかなりのスピードで激突した。
工事現場で、鉄板を落としたかのような緊迫した轟音が響きわたり、ハイラックスはブレイクダンサーのように回転する。
黒塗りの四角い車は、群生している竹を何本か折り敷いて止まったが、男達の乗った車は、竹林の奥深くまで突っ込んだ。マスードは車をゆっくりと停車し、ため息をついた
「もういい……視認した。」
幸が、呆然と携帯電話につぶやいた。
ウルを含め、三人は車から出た。息が闇夜に白い。
蒸気を派手に上げた四駆が、尻をこちらに向けて止まっている。
下手人の、黒い車がバックで動き出した。
ごついぼろぼろのアメリカ製4WDだ。
前方部は、ロールバーで強化している為か、傷らしい傷は見えない。
運転席から油で汚れたつなぎ姿の男が降りてきた。年は四〇前後だろうか、五人の中にいた巨漢より、一回り大きい、顔中無精ひげに覆われ眼には変わった形のサングラスを掛けている。
男はこちらに一瞥もくれず、無造作になぎ倒された竹林に踏み込み、車中を確認した。
驚いたことに、軍手をはめた手には、何の武器も帯びていない。
運転席を開け、気絶してこちらによりかかってきた男をうっとうしげに突き飛ばした。
しばらく上半身だけを車内に入れて、ごそごそとやっていたが、一分もしないうちに、手ぶらでこちらの方にやってきて、ウルたちの前に立った。
街灯もない、漆黒の闇の中で、細い月の光が、その姿を映し出した。熊のような巨躯に、疲れた表情をのせたその男は、どこにでもいる労働者に見えた。近くで見てわかったのだが、掛けているのは、サングラスではなくセーフティーゴーグルだった。無精ひげの生えた顔立ちは、特に人目を惹きつけはしないだろう。
ガタイのいい、一見どこにでもいそうな中年男だ。
ただ、その佇まいは何か見ているものの心胆を、寒からしめる雰囲気を放っていた。その元凶は、男の眠そうにすら見える、白けた目つきだ。
ポリカーボネートでできた、レンズ越しに見えるこの世のすべてに興味がなさそうな、醒めた眼差し。
それは、男の素性を物語る、履歴書に思えた。
「車内のカバンと、ダッシュボードを漁ったら、合成麻薬がわんさか出てきました。二人とも生きているようですし……安く済んでよかったですね。マスード」
錆を含んだその声は、世間話をしているようにしか聞こえなかった。
「まったくじゃ、ついかっとしてしもての。よく考えたら、あんな奴らのために、無駄に金を使うのは、馬鹿馬鹿しい」
老人は、照れたように笑った。
「後は、もう一台の方ですね」
男は振り返り、二〇〇メートルほど離れた場所で、竹林の檻に自ら閉じ込められている四駆を見た。
「とっつあん、あれ!」
幸の緊張した声の先に、皆が眼を向ける。
先ほどサイヤーラが、漁っていた車が揺れている。程なく後部ハッチが開き、マスードに、片腕を折られた巨漢が降りてきた。
いいほうの手に、バットを握ったその男は、左脚を引きずりながらこっちにゆっくりと向かってきた。
狂気に支配されている、血だらけの形相をみれば、挨拶しに来たわけではないのがわかる。
ウルは皆から一歩さがった。自分は、遠慮するという意思表示だ。
サイヤーラは、男をセンスのない壁の落書きでも眺めるような顔で言った。
「幸」
「んだよ」
巨漢から眼を離さず、返事をした幸だが、
「お前がやれ。武器は持ってるな」
その台詞にびっくりして、サイヤーラを振り返った。
「な……あいつ、私より三〇センチはでけえぞ! も少し初心者向けからいこうぜ!?」
サイヤーラは、五メートルの距離まで近づいて来ている男を眺めながら、めんどくさそうに言った。
「相手は手負いだろうが。やれ。なんなら銃を使うか?」
幸は何か言い返そうとしたが、忙しなく、巨漢とサイヤーラを見比べると、
「やってやるよ! なめんじゃねー!」
やけくそ気味に喚いて、背後に手を回した。
パチン、とボタンを外す音がすると、トレーナーの背中から、何かがすべり落ちてきた。
それを右手で引っつかみ、体の前で構えて喚く。
「明日から、幸さんって呼びやがれ!」
それは短い木刀だった。いや、鞘に収まったままの、短刀だ。
いわゆる、昔の任侠映画で出てくるような、無粋な代物である。
しかし、その白鞘は彼女の肌のように白く、工芸品の様な趣を備えており、美少女と匕首という、およそ似つかわしくない組み合わせを、鑑賞に堪えるものにしていた。
「私は、弱くない……私は、地獄を見たんだ」
小刻みに震えながら呪文を呟く幸を見て、ウルは異を唱えるのをやめた。
彼女もまた、闘わなければならない理由があるのだろう。己の闇を抱える者独特の、張り詰めた暗さを、ウルは幸から車の中で感じ取っていた。
闘いたくはないけど、やらなければいけない。
もう二度と、あんな思いはごめんだから。
諦念にも似た、覚悟で織られた……四六時中、脱ぐことの出来ない外套。
ウルは、幸にシンパシーを抱いた。
ウルは柞の棒をだらりと下げたまま、緊張で固まっている、幸の横に並んだ。
「動け。居つくな」
ウルが低い声で忠告すると、幸ははっとして横に飛んだ。剣先をむけたまま、巨漢から見て反時計回りに、軽やかなステップでサークリングする。黒髪と白い息が、宙に舞った.
ウルは、棒をぶらさげたまま自分の存在を強調するかのように、ゆっくりと逆方向へ歩く。気の弱い人間なら、腰を抜かしそうな殺意に満ちた視線を、横目で送りながら。その様は、血刀を引っさげた、古代インドの殺戮の女神、カーリーを連想させた。
幸の柑橘系のシャンプーの香りと、ウルから立ち上るスパイシーな香気が攪拌されて、周囲に漂った。
月明かりだけが、朧に照らすアスファルトを、美しい破壊神がひたひたと歩を進め、可憐な戦乙女が舞う。
巨漢は当然、まずウルを潰しにかかった。ウルはバックステップで、ぎりぎりの間合いを保ち、どんどん後ろに下がる。棒は構えない。受けたところで、力負けするからだ。男は引きずった足のせいで、間合いを詰められず、バットを振り下ろせないでいた。ウルの戦術は単純だ。ひたすら下がり、幸にチャンスを与える。あくまで闘うのは彼女だ。そのとき、予測していなかった事が起こった。
痛めている筈の足で、地面を蹴った男が、一気に間合いを詰めてきたのだ。
ウルは、眼を見開いた。
「フリか!」
銃声が、夜気を切り裂いた。
男の動きが、一瞬だけ凍りつく
しかし、次の瞬間、明確な殺意を持って、袈裟に振り下ろされるバット。身をかがめ、斜めに掲げた棒で擦って逸らせることができたのは、はっきりいってまぐれだった。ウルは、相手の右脇をくぐり抜けざま、横殴りに腹を打つ。
剣道で言う、『抜き胴』だ。
だが、体勢を崩していたためか、ほとんどダメージは与えられなかった。
男の振り向き様、横殴りに襲ってきたバットから、間一髪逃れる。
そのウルと、すれ違うかのように、シトラスの疾風が走り抜けた。
「お客に、なにしやがる!」
威勢のいい掛け声とともに、幸が跳んだ。
「ごっ」
顔の真ん中に、ずっしりと重い鞘付きの匕首をたたき付けられた巨漢は、バットを取り落として顔を覆った。
着地した幸は、二、三歩行ってバレリーナのように優雅にターン、巨漢の方に踏み込むと、左手に持った、小型のスプレーを噴射した。
「ぎぁっ!」
催涙スプレーを浴びせられた巨漢は、女のような悲鳴をあげ、眼を押さえた。文字通り、うずくまって転げまわる。
「ううらぁぁぁぁぁぁ!!」
幸は雄叫びを上げると、うずくまっている男の頭を匕首で乱打した。
真っ白な鞘が、巨漢の血で汚れていく。
髪を振り乱し、絶叫を上げる幸の美しい顔は、恐怖に支配されていた。
「立つな、立つんじゃねえ! 死んどけ!」
「幸、もういい」
ウルは声をかけ、後ろから幸の腕を捕らえた。
幸はぴたりと動きを止めた。ウルの方を振り向きもせずに、肩で息をしながら、平べったくなって、痙攣している男を見下ろしている。
人を刺したりすると、緊張のせいで得物が手に貼りつき、とれなくなるという。
ウルは白鞘を握り締めすぎて、白くなっている幸の指を、一本づつはがしていった。
「ここまで、やるつもりはなかったんだ……ただ、気付いてみたら」
幸はガタガタ震えながら、言った。右頬に、うっすらと十センチほどの赤い線が走っていた。
傷だ。
今まで目立たなかったのが、頭に血が上ったせいで、浮き出てきたのか。
白鞘を預かったまま、ウルは頷き言葉少なに言った。
「初陣なら、たいした戦果だな」
幸は口許を押さえて、道路際に走った。
しゃがみこんでえづく幸に、ウルは近づかなかった。下手な気遣いは、彼女のプライドを逆撫でするだけだ。
「サイヤーラ」
マスードの厳しい声に、ウルは並んで車のそばに立つ二人へ眼を向けた。
いつの間にか、サイヤーラの手には拳銃が握られていた。
さっきの銃声の主は彼か。
「幸は十分苦しんで生きてきた。まだ足りんというのか?」
「あなたには関係ないでしょう、マスード」
「少しは関係あるんだよ、サイヤーラ。実の母に売られ、タイの売春窟に放り込まれる寸前に、アラーの意志で、お前が助けることになった不幸な少女は、私にとって孫も同然なんだ」
なおもはいつくばって、えずく幸の後姿を見つめるマスードの声は、怒りに満ちていた。
ウルは聞いてない振りをした。上手に出来ていればいいが。
「助けたんじゃない」
口調を崩したサイヤーラが、不機嫌そうに顔を逸らすのが、視界の隅に入った。
「三〇〇バーツで買ったんだ、あの忌々しい、やり手ババアからな」
「まだ言うか、サイヤーラ」
マスードは、鋭い声をサイヤーラに放った。
「あの子を、売春婦のように言うのはやめろ。お前が、彼女を純潔のまま救い出すことが出来たのは、アラーのご加護があったればこそなんだ」
「もういい。なら、施設に入るように、あんたから説得してくれ、マスード。あんたが引き取ってくれたら、なおいい……幸、いつまで吐いてやがる!」
サイヤーラは、大声で怒鳴った.醒めた印象が一変して、強面の鬼教官のようだ。幸は、口許をきれいに畳まれたハンカチで押さえながら、涙目でふりむく。
「何で刺さなかった? 挨拶してから、殴りかかってくれる、町道場のチャンバラじゃねえんだ、相手が殺しに来てんのが、わからなかったのかよ? 0点だ、甘ちゃん……車に乗れ」
ウルは、サイヤーラが運転する、アメリカ製の四輪駆動車の後部座席で、ぼんやりと過ぎ去っていく、田舎路を見ていた。
幸は、助手席の窓を全開にし、その上に顎をのせて放心していた。
「近々テストする。その結果が0点なら、施設へ行け」
エンジンをスタートさせながら、サイヤーラが出した通告に、ショックを受けているのか。
こちらから見える、左頬が腫れている。
匿名で119してもよいか、と恐る恐る尋ねた幸を、サイヤーラが無言で張り飛ばしたのだ。
これにはウルも苦笑し、マスードも渋面を作った。
ウルは切なくなった。幸は優しすぎる。こんなことには全く向いていない。
結局もう一台の三人も、命に別条はなく、サイヤーラがぶつけた方の車から持ってきた、合成麻薬を車内にばらまくと、気絶しているのを尻目に、さっさとその場を離れた。
マスードは、
「今夜ハシムに、連絡してみるといい。わしの連絡先は、サイヤーラに聞いてくれ」
そう言って、今日一日で、すっかり廃車に近付いた軽自動車を駆り、帰ってしまった。
サイヤーラの説明によると、警察は事故よりも、自分たちの点数になる、麻薬の売人の検挙の方に重きをおくので、せいぜい事故現場に、目撃者を募る看板を置く程度だろう、ということだった。 事件を一つでも、なかったことにしようという警察の勤勉さは、どこの国でも一緒のようだ。
今、ウルを乗せた車は、サイヤーラの、知り合いの外国人ばかりが集まる安宿に向かっている。
できるだけ、足がつくような宿は避けるべきだというサイヤーラの助言に、ウルは全面的に賛成した。
サイヤーラは、無表情で何事もなかったかのように運転している。
やがて幸は透き通るような声でハミングを始めた。夕焼け小焼けだ。ウルでも知っている。
家路に着くことから連想したのか。
お手てつないでみなかえろ
カラスと一緒にかえりましょ
先ほどの、がさつな口調から、想像できない……逆を言えば、清楚で儚い外見にふさわしい、歌声だ。
小さく歌い始めた、そのファルセットボイスに、ウルは黙って耳を傾けた。
先ほどの立ち回りで、声が嗄れていないのは何故だろう? それに、歌が上手すぎる。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われてみたのは何時の日か
十五で姉やは嫁に行き……
「……お里の便りも絶え果てた」
ハスキーな声でハモり出したウルを、幸は驚いて振り返ったが、歌うのはやめなかった。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
狭い車内に、二人のハーモニーが優しく響く。
止まっているよ、竿の先
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回はウルが京都大学を訪れ、話が急加速いたします。
どうか、お付き合いの程をよろしくお願いします。
ウルは、断続的に伝えられる衝撃を、こらえるため天井に手を、前方のシートに膝をつっかえさせて聞いた。
二台の四駆が、後ろからクラクションを鳴らしながら迫り、時折バンパーをぶつけてくる。片側一斜線の一般道を、西に向かって三台は走り続けた。マスードの運転は、年齢に似合わず巧みで、前方に回りこまれるのをうまく防ぎながら、七〇km/h台をキープし続けた。
「すまん、客人。全てわしのせいだ」
「そうだな、お前達のせいだ」
幸が、不満げにこちらを見たが、ウルは冷たく燃える怒りの視線で迎えた。
「降りる。車を止めろ」
ウルは、低い声で言った。
幸が白けたように言った
「眼と耳ついてるか? 今車止めたら、パンティ共に、よくて粗末な股間のブツで穴だらけ、悪けりゃ殺されるぜ」
「それは私のせいか?」
怒気を孕ませて、ウルが幸に言った。
「あいつらにそう言や、見逃してくれるかもな」
幸が、能面で答えた。
「どのみち、今回の計画は無しだ。ポリスが絡んでくる」
ウルは横を向いて、吐き捨てた。
交通量が減ってきた。まるでわざわざ寂しい方にむかっているかのようだ。
「いや、客人。それはない。アラーに誓って言える……サイヤーラが依頼を受けたんだ。 今夜のトラブルはなかったし、奴らはこの世に存在しなかったも同然になる。」
「これ以上、おかしな犯罪に関わるのはごめんだ。降ろせ」
「おいおい」
幸が、あきれたように振り返った。
「イラクくんだりからここまで、愛と平和でも説きに来たのか? 僕たちゃ、陽気でおしゃまな密輸団だ。とっくに、あんたは犯罪者なんだよ」
「違う。お前達といっしょにするな」
ウルは語気を強めた。
「客人。あなたはただ、話を持ちかけるためにこの地へ来ただけだ。何の法律も犯してないし、わしらとは無関係。行き先が同じじゃから同乗させただけだ。と、同時に今この車から降りられても、交渉から降りられてもわしの面目は丸つぶれになる。そこでだ」
マスードは、反対車線へ回り込んできたメタルブルーのハイラックスを、ちらりと見た。巨漢が、折れてないほうの手に握った木刀を窓から突き出して、屋根に叩きつけてきた。耳を聾する金属音に、ウルは顔をしかめて、そそくさと反対側の席に尻をずらす。
マスードは、ハンドル操作で距離をとりながら、淡々と続ける。
「取引しないか? 金じゃないが、君が喉から手が出るほど、欲しがる物をやる」
「それは、興味深いな」
ウルは、窓の外に目を向けたまま、興味なさげに言った。コートの下では油断なく、柞の木を握り締めている。
「君の住んでいる村の辺りは治安が悪そうだな。わしはあのあたりに顔が利く。わしが言えば、おそらくスンニー派の襲撃に関しては、止まるだろう。」
ウルは一瞬驚いたが、まなざしに疑いの色を濃くして聞いた。
「あなたは、イラク人ではないだろう?」
「イラクの北部には、アフガンからの民兵が、多く流れ込んでいる。知っているだろう、過激派と呼ばれる連中はほとんどが、外国から紛れ込んできたイスラム教徒だ。それに、あのあたりの部族長たちとは親しい。可能だ」
木刀が、屋根を叩く音でうるさい。
「私はそれを、どうやって確認すればいい?」
ウルは半信半疑で、問うた。
「そうだな、ミズはシレルキャンプから来たといっていたか。ハシムの小僧はどうしておる? アフガンの戦闘に、参加しに来たときは、初陣でがたがた震えておった。いっしょにおった眼鏡の小僧……名前は忘れたが、頭の良い奴だった。二人とも、基地内でアイスクリームを食わせてやったら、あまりのうまさに叫び声をあげておった」
「ハシム師と、アリさんを知っているんですか?」
ウルは思わず、驚きの声をあげたが、
「師?……こいつは、驚いた。わしも年をとるはずだ」
話しながらも、マスードは、鋭くハンドルを切る。
対向車がやってきて、ハイラックスは、やむなく元の車線に戻った。
「マス爺、とっつ……いや、サイヤーラは、いつ来るんだ?」
幸が、じりじりした口調で聞いた。
「もうそろそろ落ちあうころだ。客人、あとでハシムに、連絡を取ってみるといい。マスードが、つぎに会ったときは、ストロベリーアイスをご馳走してやると言ってたのを覚えているかとな」
「今の話を……」
「アラーに誓う。取引の話に乗ってくれるかな?」
ウルは、スカーフから覗く両目を、煌かせながらいった。
「そういう話なら、願ってもない……それに」
ウルはコートの下から、ゆっくりと柞の棒を抜き、胸の内で語りかけた。
友よ、目を覚ませ。
「いい加減、駄犬どもの鳴き声には、うんざりしていたんだ」
ノラ犬狩りの時間だ。
ウルは、コートを脱いで膝の上にかけ、得物を隠した。
「イヌどもの、運転席に寄せろ」
「おお、かっけー。急にやる気になったなあ 姉さん」
感極まったような、幸の嬌声を無視して、ウルは、タイミングを計ることに神経を集中した。
かなり凹凸になった軽が、対向車線に入り、スピードを落とした。徐々にウルの座っている助手席側の後部座席が、ハイラックスの運転席に近づき、運転席の男が、興奮した表情で、ウルに向かって何かをわめき散らした。
並んだ。
武器を握り締める、右の二の腕の筋肉が膨れ上がる。左手は添えるだけ。
「窓を開けろ」
言われたとおり、マスードがウルの左側面の窓を開けた。
正義は我にあり。
愚かなことに、相手の男も、運転席の窓を開けた。
バカが。
「ぜええええええいっ!」
裂帛の気合と共にくりだされた、ウルの渾身の突きが、開きかけた男の口に飛び込み、前歯の大半をへしおった。
運転していた男は、陸に揚げられた魚のように痛みに暴れ、道路から逸れたハイラックスは、竹林に突っ込む。
「……すげえ」
幸が、やっとそれだけをつぶやいた。
「後一台だな。寄せろ」
ウルは、何事もなかったかのように次の指示を出した。
「……客人。唯乗っていてくれてるだけでええんじゃが」
マスードが、言いにくそうに言った。
「……そうなのか」
ウルが、きょとんとした顔で聞き返した。
「あれ、生きてるかな」
バックミラーを見て、幸が不安そうにつぶやく。
ウルは構えを解き、スカーフの下で皮肉っぽく口元を歪めた。
「お優しいことだな。殺したいんじゃなかったのか?」
幸がむっとして、シートの隙間からこちらを睨んだ。
「勘違いするんじゃねーよ。死体が出たら、後始末に費用がかさむんだ……にしても迷いねーな、あんた」
「やるときは、絶対に躊躇うな。剣術の師匠の厳命でな」
ウルは、棒に付いた血を、車内のティッシュでふき取りながら答えた。
マスードが、やれやれと言った感じで尋ねる
「反射的に、言われたとおりにしちまったが……喉をついたのか?」
「口の中だ。前歯が何本か折れたろうな。まあ、死んだとしても、お互い覚悟の上での勝負だ」
「いや、向こうは明らかにしてねーだろ」
幸が突っ込む。
「エアバッグがあるから、死んではいないだろうが……あまり現場を広げると、サイヤーラが苦労する……驚いたの、まだ追ってくる」
もう一台の、臙脂色のハイラックスは、止まることなくついて来た。
あちらも、常軌を逸している。
「で、どうする。座っているだけでいいなら、ありがたい」
幸の携帯が、流行のポップスを歌いだした。
「……電話……。サイヤーラ! ……ハイ、幸。え、そっちから見えるの? どこ?そう、後の赤茶色の四駆。一台はやっつけた。で、どこにいるのさ?」
竹林に囲まれ、ぽつぽつと街灯があるだけの、交通量の途絶えた片側一車線の道に、二台の車の走行音が響く。
「どこ? わかんねえよ。え、次の曲がり角?」
ぼろぼろになった軽が右折可能な道を、通り過ぎた瞬間だった。
ライトを消した、四角い車が横合いから、獲物に襲いかかるかのように、サーフの後部にかなりのスピードで激突した。
工事現場で、鉄板を落としたかのような緊迫した轟音が響きわたり、ハイラックスはブレイクダンサーのように回転する。
黒塗りの四角い車は、群生している竹を何本か折り敷いて止まったが、男達の乗った車は、竹林の奥深くまで突っ込んだ。マスードは車をゆっくりと停車し、ため息をついた
「もういい……視認した。」
幸が、呆然と携帯電話につぶやいた。
ウルを含め、三人は車から出た。息が闇夜に白い。
蒸気を派手に上げた四駆が、尻をこちらに向けて止まっている。
下手人の、黒い車がバックで動き出した。
ごついぼろぼろのアメリカ製4WDだ。
前方部は、ロールバーで強化している為か、傷らしい傷は見えない。
運転席から油で汚れたつなぎ姿の男が降りてきた。年は四〇前後だろうか、五人の中にいた巨漢より、一回り大きい、顔中無精ひげに覆われ眼には変わった形のサングラスを掛けている。
男はこちらに一瞥もくれず、無造作になぎ倒された竹林に踏み込み、車中を確認した。
驚いたことに、軍手をはめた手には、何の武器も帯びていない。
運転席を開け、気絶してこちらによりかかってきた男をうっとうしげに突き飛ばした。
しばらく上半身だけを車内に入れて、ごそごそとやっていたが、一分もしないうちに、手ぶらでこちらの方にやってきて、ウルたちの前に立った。
街灯もない、漆黒の闇の中で、細い月の光が、その姿を映し出した。熊のような巨躯に、疲れた表情をのせたその男は、どこにでもいる労働者に見えた。近くで見てわかったのだが、掛けているのは、サングラスではなくセーフティーゴーグルだった。無精ひげの生えた顔立ちは、特に人目を惹きつけはしないだろう。
ガタイのいい、一見どこにでもいそうな中年男だ。
ただ、その佇まいは何か見ているものの心胆を、寒からしめる雰囲気を放っていた。その元凶は、男の眠そうにすら見える、白けた目つきだ。
ポリカーボネートでできた、レンズ越しに見えるこの世のすべてに興味がなさそうな、醒めた眼差し。
それは、男の素性を物語る、履歴書に思えた。
「車内のカバンと、ダッシュボードを漁ったら、合成麻薬がわんさか出てきました。二人とも生きているようですし……安く済んでよかったですね。マスード」
錆を含んだその声は、世間話をしているようにしか聞こえなかった。
「まったくじゃ、ついかっとしてしもての。よく考えたら、あんな奴らのために、無駄に金を使うのは、馬鹿馬鹿しい」
老人は、照れたように笑った。
「後は、もう一台の方ですね」
男は振り返り、二〇〇メートルほど離れた場所で、竹林の檻に自ら閉じ込められている四駆を見た。
「とっつあん、あれ!」
幸の緊張した声の先に、皆が眼を向ける。
先ほどサイヤーラが、漁っていた車が揺れている。程なく後部ハッチが開き、マスードに、片腕を折られた巨漢が降りてきた。
いいほうの手に、バットを握ったその男は、左脚を引きずりながらこっちにゆっくりと向かってきた。
狂気に支配されている、血だらけの形相をみれば、挨拶しに来たわけではないのがわかる。
ウルは皆から一歩さがった。自分は、遠慮するという意思表示だ。
サイヤーラは、男をセンスのない壁の落書きでも眺めるような顔で言った。
「幸」
「んだよ」
巨漢から眼を離さず、返事をした幸だが、
「お前がやれ。武器は持ってるな」
その台詞にびっくりして、サイヤーラを振り返った。
「な……あいつ、私より三〇センチはでけえぞ! も少し初心者向けからいこうぜ!?」
サイヤーラは、五メートルの距離まで近づいて来ている男を眺めながら、めんどくさそうに言った。
「相手は手負いだろうが。やれ。なんなら銃を使うか?」
幸は何か言い返そうとしたが、忙しなく、巨漢とサイヤーラを見比べると、
「やってやるよ! なめんじゃねー!」
やけくそ気味に喚いて、背後に手を回した。
パチン、とボタンを外す音がすると、トレーナーの背中から、何かがすべり落ちてきた。
それを右手で引っつかみ、体の前で構えて喚く。
「明日から、幸さんって呼びやがれ!」
それは短い木刀だった。いや、鞘に収まったままの、短刀だ。
いわゆる、昔の任侠映画で出てくるような、無粋な代物である。
しかし、その白鞘は彼女の肌のように白く、工芸品の様な趣を備えており、美少女と匕首という、およそ似つかわしくない組み合わせを、鑑賞に堪えるものにしていた。
「私は、弱くない……私は、地獄を見たんだ」
小刻みに震えながら呪文を呟く幸を見て、ウルは異を唱えるのをやめた。
彼女もまた、闘わなければならない理由があるのだろう。己の闇を抱える者独特の、張り詰めた暗さを、ウルは幸から車の中で感じ取っていた。
闘いたくはないけど、やらなければいけない。
もう二度と、あんな思いはごめんだから。
諦念にも似た、覚悟で織られた……四六時中、脱ぐことの出来ない外套。
ウルは、幸にシンパシーを抱いた。
ウルは柞の棒をだらりと下げたまま、緊張で固まっている、幸の横に並んだ。
「動け。居つくな」
ウルが低い声で忠告すると、幸ははっとして横に飛んだ。剣先をむけたまま、巨漢から見て反時計回りに、軽やかなステップでサークリングする。黒髪と白い息が、宙に舞った.
ウルは、棒をぶらさげたまま自分の存在を強調するかのように、ゆっくりと逆方向へ歩く。気の弱い人間なら、腰を抜かしそうな殺意に満ちた視線を、横目で送りながら。その様は、血刀を引っさげた、古代インドの殺戮の女神、カーリーを連想させた。
幸の柑橘系のシャンプーの香りと、ウルから立ち上るスパイシーな香気が攪拌されて、周囲に漂った。
月明かりだけが、朧に照らすアスファルトを、美しい破壊神がひたひたと歩を進め、可憐な戦乙女が舞う。
巨漢は当然、まずウルを潰しにかかった。ウルはバックステップで、ぎりぎりの間合いを保ち、どんどん後ろに下がる。棒は構えない。受けたところで、力負けするからだ。男は引きずった足のせいで、間合いを詰められず、バットを振り下ろせないでいた。ウルの戦術は単純だ。ひたすら下がり、幸にチャンスを与える。あくまで闘うのは彼女だ。そのとき、予測していなかった事が起こった。
痛めている筈の足で、地面を蹴った男が、一気に間合いを詰めてきたのだ。
ウルは、眼を見開いた。
「フリか!」
銃声が、夜気を切り裂いた。
男の動きが、一瞬だけ凍りつく
しかし、次の瞬間、明確な殺意を持って、袈裟に振り下ろされるバット。身をかがめ、斜めに掲げた棒で擦って逸らせることができたのは、はっきりいってまぐれだった。ウルは、相手の右脇をくぐり抜けざま、横殴りに腹を打つ。
剣道で言う、『抜き胴』だ。
だが、体勢を崩していたためか、ほとんどダメージは与えられなかった。
男の振り向き様、横殴りに襲ってきたバットから、間一髪逃れる。
そのウルと、すれ違うかのように、シトラスの疾風が走り抜けた。
「お客に、なにしやがる!」
威勢のいい掛け声とともに、幸が跳んだ。
「ごっ」
顔の真ん中に、ずっしりと重い鞘付きの匕首をたたき付けられた巨漢は、バットを取り落として顔を覆った。
着地した幸は、二、三歩行ってバレリーナのように優雅にターン、巨漢の方に踏み込むと、左手に持った、小型のスプレーを噴射した。
「ぎぁっ!」
催涙スプレーを浴びせられた巨漢は、女のような悲鳴をあげ、眼を押さえた。文字通り、うずくまって転げまわる。
「ううらぁぁぁぁぁぁ!!」
幸は雄叫びを上げると、うずくまっている男の頭を匕首で乱打した。
真っ白な鞘が、巨漢の血で汚れていく。
髪を振り乱し、絶叫を上げる幸の美しい顔は、恐怖に支配されていた。
「立つな、立つんじゃねえ! 死んどけ!」
「幸、もういい」
ウルは声をかけ、後ろから幸の腕を捕らえた。
幸はぴたりと動きを止めた。ウルの方を振り向きもせずに、肩で息をしながら、平べったくなって、痙攣している男を見下ろしている。
人を刺したりすると、緊張のせいで得物が手に貼りつき、とれなくなるという。
ウルは白鞘を握り締めすぎて、白くなっている幸の指を、一本づつはがしていった。
「ここまで、やるつもりはなかったんだ……ただ、気付いてみたら」
幸はガタガタ震えながら、言った。右頬に、うっすらと十センチほどの赤い線が走っていた。
傷だ。
今まで目立たなかったのが、頭に血が上ったせいで、浮き出てきたのか。
白鞘を預かったまま、ウルは頷き言葉少なに言った。
「初陣なら、たいした戦果だな」
幸は口許を押さえて、道路際に走った。
しゃがみこんでえづく幸に、ウルは近づかなかった。下手な気遣いは、彼女のプライドを逆撫でするだけだ。
「サイヤーラ」
マスードの厳しい声に、ウルは並んで車のそばに立つ二人へ眼を向けた。
いつの間にか、サイヤーラの手には拳銃が握られていた。
さっきの銃声の主は彼か。
「幸は十分苦しんで生きてきた。まだ足りんというのか?」
「あなたには関係ないでしょう、マスード」
「少しは関係あるんだよ、サイヤーラ。実の母に売られ、タイの売春窟に放り込まれる寸前に、アラーの意志で、お前が助けることになった不幸な少女は、私にとって孫も同然なんだ」
なおもはいつくばって、えずく幸の後姿を見つめるマスードの声は、怒りに満ちていた。
ウルは聞いてない振りをした。上手に出来ていればいいが。
「助けたんじゃない」
口調を崩したサイヤーラが、不機嫌そうに顔を逸らすのが、視界の隅に入った。
「三〇〇バーツで買ったんだ、あの忌々しい、やり手ババアからな」
「まだ言うか、サイヤーラ」
マスードは、鋭い声をサイヤーラに放った。
「あの子を、売春婦のように言うのはやめろ。お前が、彼女を純潔のまま救い出すことが出来たのは、アラーのご加護があったればこそなんだ」
「もういい。なら、施設に入るように、あんたから説得してくれ、マスード。あんたが引き取ってくれたら、なおいい……幸、いつまで吐いてやがる!」
サイヤーラは、大声で怒鳴った.醒めた印象が一変して、強面の鬼教官のようだ。幸は、口許をきれいに畳まれたハンカチで押さえながら、涙目でふりむく。
「何で刺さなかった? 挨拶してから、殴りかかってくれる、町道場のチャンバラじゃねえんだ、相手が殺しに来てんのが、わからなかったのかよ? 0点だ、甘ちゃん……車に乗れ」
ウルは、サイヤーラが運転する、アメリカ製の四輪駆動車の後部座席で、ぼんやりと過ぎ去っていく、田舎路を見ていた。
幸は、助手席の窓を全開にし、その上に顎をのせて放心していた。
「近々テストする。その結果が0点なら、施設へ行け」
エンジンをスタートさせながら、サイヤーラが出した通告に、ショックを受けているのか。
こちらから見える、左頬が腫れている。
匿名で119してもよいか、と恐る恐る尋ねた幸を、サイヤーラが無言で張り飛ばしたのだ。
これにはウルも苦笑し、マスードも渋面を作った。
ウルは切なくなった。幸は優しすぎる。こんなことには全く向いていない。
結局もう一台の三人も、命に別条はなく、サイヤーラがぶつけた方の車から持ってきた、合成麻薬を車内にばらまくと、気絶しているのを尻目に、さっさとその場を離れた。
マスードは、
「今夜ハシムに、連絡してみるといい。わしの連絡先は、サイヤーラに聞いてくれ」
そう言って、今日一日で、すっかり廃車に近付いた軽自動車を駆り、帰ってしまった。
サイヤーラの説明によると、警察は事故よりも、自分たちの点数になる、麻薬の売人の検挙の方に重きをおくので、せいぜい事故現場に、目撃者を募る看板を置く程度だろう、ということだった。 事件を一つでも、なかったことにしようという警察の勤勉さは、どこの国でも一緒のようだ。
今、ウルを乗せた車は、サイヤーラの、知り合いの外国人ばかりが集まる安宿に向かっている。
できるだけ、足がつくような宿は避けるべきだというサイヤーラの助言に、ウルは全面的に賛成した。
サイヤーラは、無表情で何事もなかったかのように運転している。
やがて幸は透き通るような声でハミングを始めた。夕焼け小焼けだ。ウルでも知っている。
家路に着くことから連想したのか。
お手てつないでみなかえろ
カラスと一緒にかえりましょ
先ほどの、がさつな口調から、想像できない……逆を言えば、清楚で儚い外見にふさわしい、歌声だ。
小さく歌い始めた、そのファルセットボイスに、ウルは黙って耳を傾けた。
先ほどの立ち回りで、声が嗄れていないのは何故だろう? それに、歌が上手すぎる。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われてみたのは何時の日か
十五で姉やは嫁に行き……
「……お里の便りも絶え果てた」
ハスキーな声でハモり出したウルを、幸は驚いて振り返ったが、歌うのはやめなかった。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
狭い車内に、二人のハーモニーが優しく響く。
止まっているよ、竿の先
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回はウルが京都大学を訪れ、話が急加速いたします。
どうか、お付き合いの程をよろしくお願いします。
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