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		<title>第八章  さよならは言わせない</title>

		<description>　あるところに、おとうさん、おかあさん…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　あるところに、おとうさん、おかあさん、男の子がいました。
　とっても仲のいい、しあわせな、かぞくでした。
　でも、ある日、おかあさんが、びょうきでしんでしまいました。
　やさしかったおとうさんは、お酒を飲んでは、男の子をぶつようになりました。
　毎日ぶたれてばかりの男の子は、大事にしていた、かっぱのぬいぐるみをぶつようになりました
　かっぱさんは、うでのところと首のところがとれかけて、なかみがすこしはみだしてしまいました。
　かわいそうにおもった、かみさまはあるばん、おもちゃばこのかっぱさんのまえにあらわれていいました。
　「かっぱくん。なにかおねがいはありませんか」
　かっぱさんはいいました。
　「ならぼくを、男の子がぶたれそうなときに、一回だけでいいからおおきくして、しゃべれるようにしてください」
　
　
　七海は放心したまま、パイプイスに腰掛けていた。
ウルマと名乗る女が去って、どれくらい経ったろう。
一度桃井が、心配したのか覗きに来てくれたが、七海は窓の外を見つめたまま振り返りもしなかった。
日が暮れるとともに足元から忍び寄り始めた冷気だけが、七海を現実の世界につなぎとめていた。
　さっきの十崎との会話。
まるでいつもの帰り道で、交通事故にあったような唐突さだ。付き合ってる彼氏が――いないが――実は女でしたと聞かされても、きっとこんなに驚かないだろう。手の込んだ、十崎一流の悪ふざけと思いたかった。ウルマと言う女の存在がなければ、絶対に信じなかったろう。
　このまま家に帰れば……明日いつものように研究室の扉を開けたら……
　「相変わらず、朝早いですね、十崎さん」
「実は、九城さんとの蜜月に、この部屋を活用してるんじゃないんですか？　でバレないように九城さんだけ先に……いやらしい」
「聞いてるんですか、十崎さん」
　くしゃっと七海の顔が歪んだ。
きっといない。
明日はきっといないし、ずっといない。
九城さんが、気紛れにやってきて、違法ダウンロードしたデータを、十崎さんにたかりに来たりすることも、きっとない。
明日には、愛すべきダメ人間達はいないのだ。
　そして……
　スフィンクス・ゲーム。
　この単語が、十崎の口から出てくるとは、夢にも思わなかった。
このゲームにまつわる、記憶がよみがえるたびに、自分を小声で罵ったり、脈絡の無い事を口走ったりして誤魔化して来たが、今はそうする気さえ起こらない。
　七海の中で、相反する感情が、意識の水面に交互に顔を出す。
スフィンクス・ゲームに、興味があったから、私に近づいてきただけ。
落胆。怒り。悲しみ。
それは、珍獣に興味を持つのと同じ意味合いの、関心なのだろうか。黒田さんから助けてくれたのも、全部計算づくだったのか。
　そして、もうひとつの感情。
　スフィンクス・ゲームの事を知っているのに、私に興味を持ってくれた。
　安堵。
　後者の方が、七海には大きかった。
　それくらいまでに、消したい過去なのだ。
　心理的なガードを取っ払った七海の脳裏に、次々と断片的な映像が走り抜ける。
　仲間だった同級生に、頬桁を張られる自分。
　金切り声を上げて、うずくまる半裸の自分。
　真っ赤な顔で、襲い掛かってくる裸の男。
　その後ろの、男達……
　七海は、我知らず呟いた。
　「十崎さん……」
　助けを、求めるかのように。
　さっきの口調の暖かさ。
　『全く……あなたには興ざめです』
　ウルマという、女の言葉。
　『なら、あなたも戦えミズ 』
　勝手言ってんじゃないわよ。
　「言われなくても」
　七海は、涙を拭って立ち上がった。

　「黒田さん、聞きたいことが」
　すっかり夜の帳に包まれた、研究室の扉を開けるとそこにいたのは黒田だけだった。
　「なんだよ」
　黒田は、パソコンから、顔もあげずに返事を返した。
　「お客さんを連れて来た時、九城さんがいってた……」
　「ひよこって子だろ？　美夜子（みよこ）って名前で、十崎の妹だ」
　先を越されて、鼻白んだが、
　「聞こえてたんですか？　談話室での会話」
　「叫び声だけはな。いくら壁が厚くても……俺と桃井しか、聞いてないから安心しろ」
　「その美夜子さんと……」
　「無理だ。十崎と九城以外は、その子の連絡先をしらない。それに十崎は、妹の事に触れられるのを、極端に嫌う」
　七海は、失望でずっしりと体が重くなった。九城さんは、教えてくれるだろうか。無理な気がする。
　「だが、九城は別に気にしてなかった。だからその子の家までの地図をダウンロードさせられた事がある」
「……！　あのっ」
　「何するつもりだ、その子の家にいって」
　黒田が、はじめて顔をあげた。
七海は、研究者が、論文のプレゼンテーターに向けるような視線を、ガッチリと受け止める。
全部を、説明するわけにはいかない。
考えろ。考えろ。
　そして。
　「明日」
　七海は、決然とした表情を黒田に向けた。
　「十崎さんに、いつもどおり挨拶して……」
　七海は、最大限の想いを言葉に込めた。
　「もしかしたら、来るかもしれない九城さんに備えたり、学食までダッシュしたり」
　七海の眼から、光るものが溢れた。
　「二人が授業中、笑わせてくるのに耐えたり、十崎さんに、また明日って言ったりするために……」
　「その話をまとめると」
　七海の言葉が、終わらないうちに黒田が言った。
　「十崎が……いや二人とも、いなくなろうとしてる。そういう事か？」
黒田さんは、喜ぶかもしれないな。
　「はい」
　「そいつは」
　黒田は、おもむろに立ち上がり、窓際まで歩いて行くと、背中を向けたまま言った。
　「そいつは……非常に困る」
　やっぱり。でも。
　「黒田さんには、確かに好都合かもしれませんが……え？」
　「困るって言ったんだ。朗読か……もとい、サークル活動がなくなったら、確実に現在の部員が激減する……何考えてるんだ、副部長も、警備隊長も」
　「あの、話が……」
　「言ってなかったか？」
黒田は振り向いて、ニヤリと笑った。
　
　「俺も、ＤＮＣのメンバーだ」
　
　「……えええっ！　ちょ、そんな……聞いてませんよ、聞いてません！」
　天井が、グルグル周りそうだった。
　「聞かれなかったもん」
　「女子高生みたいな、言い訳はやめてください！　……もう、今日は何がどうなってるのやら……」
　七海は頭を抱えて、しゃがみ込んでしまった。いろいろありすぎて、頭がパンクしそうだ。
　「間に合うのか？」
　七海は顔を上げた。
　黒田が、自分を見下ろす真摯な視線に、所期の目的を思い出し、急いで立ちあがった。
　「たぶん……いえ、きっと」
　「具体的には、どうするつもりだ」
　本当に、この人の質問は、的を外さない。
　「十崎さんが、欲しがるアイテムを集めます。そしてもう一つ、十崎さんの人に知られたくない、ウィークポイントを、彼女から聞きます。その二つがそろえば」
　七海の腹は決まっていた。
　興味半分？　結構。
　珍獣扱い？　何を今更。
　黒田さんも言っていたじゃないか。
　『最初はみんな、そんなもんだ』
　きっかけは、どうでもいい。
　今が大事なんだ。私と十崎さんとの繋がりは、そんなゲームだけなんかじゃない。
　これって、きっと自惚れじゃない。
　だからこそ。
　七海は記憶の底に封印した、忌まわしい過去の蓋を、開けるつもりだった。
　今度は、大切なものをなくさないために。
　七海の唇が、二度と口にする事は無い、と信じていた単語を紡いだ。
　「スフィンクスゲームを、挑みます。」
　「スフィンクスゲーム？　……聞いたことがないな」
　「それはそうでしょう。最初は、一部のクイズマニアが、冗談半分ではじめた遊びだったんですから」
　七海の胸が、過去の傷でうずいた。顔をしかめたくなるほどの痛みだ。
　「十崎さんは、私とそれをやりたがっているんです」
　「それで、十崎と九城を、引きとめられるのか？」
　「十崎さんは、スフィンクスゲームの意味を、知っていました。お互いがベットするものは、プライドなんです。賭け将棋と同じです。ゲームに対して、なんの思い入れもない人には、強制力はありませんが」
　七海は、ちらりと壁時計を見た。十八時四五分。
　「そもそもそういう人は、このゲームをやりません。ですから九城さんに関しては、引きとめられるかどうかわからないです」
　「……まあ、九城はほとんど来てないも、同然だからな。十崎さえいれば、きっといつも通り、餌をもらいにやってくるだろう。時間が無さそうだな。結論から言えば、俺には、十崎の妹の住所を教えることは出来ない。道義的にとか、そんな理由じゃない。十崎にばれたら、何をされるか分からん」
　「……黒田さん」
　「だが、あくまで偶然だが、今俺がいじっていたパソコンに、京都三条の地図が出ていて、ある箇所に矢印が出ている」
　「……黒田さん！」
　「もう一つ。十崎の価値基準は独特だ。赤ん坊が高価なおもちゃよりも、トイレットペーパーの芯を、欲しがったりするのと同じようにな」
　そのとおりだ。実際、十崎が何を欲しがるのか、皆目、見当がつかない。
　「俺はその一つを持っている。今から下宿まで取りに帰って、引き返してきて一五分。ここでコピーするのに五分。間に合うか？」
　「間に合わせてみせます」
　七海は眼差しに、精一杯の感謝の念をこめていった。
　無言で踵を返し、扉に向かう黒田の背中に言った。
　「黒田さん」
　彼はきっと、この時間まで待っていてくれたのだ。
　「かなりかっこいいですよ」
　「気づくのが遅いんだ」
　黒田は振り向かず、扉の向こうに消えた。
　
　　

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		<dc:date>2011-03-11T18:26:52+09:00</dc:date>
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		<title>　第七章　さよならの前に</title>

		<description>　　
　気まずい。
　右斜め前方に、視…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　　
　気まずい。
　右斜め前方に、視線を走らせる。
　七海は談話室で、ウルと二人きりだった。
　突然、研究室に戻ってきた彼女に、彼からあなたに連絡があるはずなので、そばにいさせてほしい、と頼まれ、帰り支度を整えていた七海は、戸惑いながらも頷いたのだ。
　パイプ椅子に腰掛けた、ウルのどこか悄然とした姿に、十崎さんとなにかあったんだろうな、と思いながらも、それには触れることができなかった。相手が俯いているのをいいことに七海はウルをじっくりと観察した。
　肩にかかる黒髪、八頭身のスタイルに、意志の強そうな面立ち。どこの国の基準でも美人だろう。
　そして日本人ではないだろうに、流暢な日本語。友人を見ればその人が分かるというが、ますます十崎という人間が分からなくなる。
まあ、彼らしいっちゃあ、彼らしいが。
　沈黙という名の不可視の妖精が、二人がＬ字型にはさんだテーブルの上で、かれこれ一〇分間ラインダンスを踊っていた。
　こちらから、電話をかけようと思った矢先、ウルだけではなく、七海も又待ちこがれていた着信音が、静寂を破った。
ウルが弾かれたように、顔を上げる。
通話ボタンを押して、妙に緊迫感のある、スーパーマリオが土管に入ったときのＢＧＭを遮った。
　　「この着信音は、十崎さんです……もしもし」
ウルに問われる前に、七海は言った。
　「やあ、いとしのハニーですね」
　「……あなたがお掛けになった電話番号は、ずっと通話中であるか十崎さん禁止のため、お繋ぎすることができません。反省するか、いっぺん死んでから、お掛け直し下さい」
　コメカミに青筋を浮かべたまま、七海は平板な声で言った。
　「ああっ！　切らないでください。なんでこれぐらいでそんなに怒るんですか？　短気はあなたの欠点ですよ」
　「それをいうなら、十崎さんなんか、息をしていること自体が、神様の計画ミスじゃないですか！　もう、さっきからお客さんがお持ちですよ。代わりますね」
　「その前に、そこにハンズフリースピーカーがあるでしょう？　繋いでください」
　「え……でも」
　七海は研究室の備品である携帯電話を接続する為のスピーカーを見た。
　携帯通話が、無料になったキャリアが多いため、遠方の研究生と、意見交換をするためという建前で揃えたのだ。
　「構いません。二度説明する手間を、省きたいので」
　七海は、言われたとおりにしてから、じりじりしていたウルに、自分の携帯を渡した。
　「代わった。貴様よくも……」
　ドスの効いた声音と、突然の激しい口調に、七海は十光年ほどドン引きしたが、ウルは構わず続けようとした。
　「そういうあなたこそ、よくも、あんな危ないオッサンに、私を襲わせましたね。危うく殺されるところで、わくわくしちゃいましたよ」
　ウルは、はっとして十崎の声が流れ出て来た、スピーカーの方を振り向き、それから咎めるように七海のほうを見た。
　慌てて言い訳をしようとした七海だったが、ウルは直ぐに会話に戻った。
　「盗みをした、貴様の自業自得だろうが。取引はもういい、あれを返せ。さもないと、どこまでも追いかけ、貴様の息の根を止める」
　冗談には聞こえないウルの警告に、七海は事態の深刻さを悟り、蒼白になった。
　「そうですか……だけど残念ながら、取引に応じることにしました。もうダイエットのために、徒歩で移動中の物部くんには伝えてあります。このチェロキー外見の割には、快適ですね」
　ウルは、堪えきれずに叫んだ。
　「貴様いったい何がしたいんだ！」
　「……この時代に、皆がなくそうとしているものを伝えたい……。まぁ、青臭い理想論ですが」
　…………。
　ウルは雷鳴が似合いそうな沈黙の後、地獄の底から響いてくるような、低い声でいった。
　「……次に会ったときが、貴様の命日だ。必ず頭蓋骨を叩き割ってやる。必ずだ」
　「いいでしょう、ならば私からも。必ず頭蓋骨を叩き割られてやります。必ずです。はみでた脳味噌は、アルジャーノンにお供えしてください」
　「ぬぐああああ！！」
　「私の！　私のです！」
　七海は、ウルが自分の携帯を床に叩きつけようとするのを、腕にしがみついて必死でとめた。お気に入りの黄色のそれを、ウルの手からもぎ取ると十崎に向かって叫んだ。
　「聞こえてましたよ、十崎さん！　いったい、何をやらかしたんですか？　盗んだって何をです？」
　「あなたの心です」
　「殺す！」
　「……突然ですが、お別れです」
　「逃がすかっ！　脳味噌はみでたところを写真に撮って、バンコクの交通安全掲示板に貼り出しますよ！」
　「いえ、学校をやめるという意味です」
　「……は？」
　「九城もやめるんじゃないですかね」
　いつもの淡々とした口調から、本気の匂いを嗅ぎ取った七海は、リノリウムばりの床に足腰の力を吸い取られ、しゃがみ込みそうになった。
　「いったい、何を言い出すんですか？」
　失笑するふりをしながらも声が震える。
　「僕は正体がバレちゃいましたし、僕がいなくなったら、九城は僕を見張るために、大学に来る必要がありません」
　「見張るって……」
　「国際美術品密輸防止会議という、団体がありましてね。九城は僕を見張るため、そこに雇われた傭兵です」
　「密輸……傭兵……」
　視界が、蒼い紗膜に覆われた。
　真っ白になった七海の頭に、聞き慣れない単語がこだまする。
　自分の顔から、血が引いていくのがわかった。
　地面が歪む。
　ちがう。
　七海の体が、よろけたのだ。
　「その団体の中には、京都大学の学長の名もあります。九城の籍は、この学校にありません」
　スピーカーの向こうからかけられた、非日常という名のくすんだ色のペンキが、無慈悲に心のキャンバスを侵食していく。日常が、あっと言う間に崩れていく。
　「僕は仕事で、必要な鑑定眼を養うために……」
　「聞きたくありません！　聞きたくありません！」
　七海は金切り声をあげた。両目から涙があふれる。
　「そんなこと、言わなければいいじゃないですか。黙って今まで通り……。私は何も聞いてません！　サークルはどうなるんですか！？」
　今度は、十崎が押し黙る番だった。
　静寂の中、七海のしゃくりあげる音が悲しく部屋に響いた。
　ウルの視線を感じながら、七海は続ける。
　「私……皆には黙ってたけど……勉強とクイズばっかりやってて……。友達もろくにいなくて……　出来てもすぐにいなくなって……この学校に入って、やっと仲間を見つけることができたのに……一人にしないでください、責任取って下さいよぉ」
　「……やっぱり、駄目ですか」
　十崎は、独り言のように呟いてから続けた。
　「まったくあなたという人は……興ざめです」
　そういう十崎の声は、優しかった。
　「あなたは、別の意味で私の同類です。生い立ちのせいにはしたくありませんけど、僕は小さい時分から、親にアザだらけにされて育ったせいか、心の大事な部分のどこかが壊れてしまってるんでしょうね。死にそうな時しか、生きている感じがしないんですよ」
　「ペシュメルガ……『死の淵を渡る者』」
　ウルの呟きが、狭い室内に響く。
　「あなたは京大生で、高校生クイズの準優勝者。なんでもそうですが、超一流の領域に入るヤツらは、オタクかイカレのどちらかです」
　七海の嗚咽の中、十崎の声が続く。
　「残念ながら、よくも悪くもそういう人種は、コワれた生き方しか出来ない。選択肢がないんですよ……ミズ・ウルマ。携帯番号を」
　七海は、とうとうへたり込んでしまった。
　自分は今、何に絶望したんだろう。
　仲間を失うことか。それとも……薄々自分でも気付いていた、十崎の指摘にか。
　この先も訪れるであろう、誰に囲まれても満たされることのない孤独にか。
　「あなたには、何も言わずに去りたくなかった」
　七海は、とうとう声をあげて泣き出した。
　ウルが叫ぶ携帯の番号を聞いてから、十崎は続けた。
　「それと……一度あなたとスフィンクス・ゲームをしてみたかった。それだけが、心残りです」
　七海の泣き声が、ピタリとやんだ。
　のどの奥で、小さくしゃくりあげる音だけが、傾き始めた太陽が照らす談話室に響く。
　「……十崎さん」
　今までと、打って変わって、触れれば凍てつきそうな押し殺した声が、床を転がった。
　「どこまで、私の過去を調べたんですか？」
　「心配しないでください。誰にも言うつもりはありません。念のため、横にいる女に、私の携帯番号を伝えてください。それではまた来世で」
　無機質に響く、ツーツー音を七海は呆然と聞いていた。
　「いったい……なにが」
　七海は困惑し、瞬きを忘れた目をウルに向けた。
　ウルは暫く七海を見つめていたが、低い声で話し始めた。
　「アイツは、一年前、クルディスタン……イラク北部で民兵をやっていた。詳しい経緯はしらないが」
　「民兵……密輸の次は民兵？」
　七海が唇を震わせた。
　「ギリシャ神話の、エウリュディケを知っているか？」
　七海は眉根を寄せた。回りくどい話方に、付き合う気分じゃない。
　だが、違った。
　七海が返事しないのを、知らないからだと勘違いしたウルは続ける。
　「あの世まで、死んだ妻を連れ戻しに来た彼女の夫は、冥府から妻を連れ帰っていい代わりに、地上に出るまで振り向いてはいけないと言う約束を、地獄の神と交わした。あと一息というところで、夫は無言のプレッシャーに負け、振り向いてしまい、妻はあの世に引き戻された……クルディスタンで背後から、素手で敵の頚骨をへし折るのを得意としていた……」
　七海は血の気が、顔から引いていくのが分かった。話を制止しようとした。耳をふさごうとした、。
　どちらも間に合わなかった。
　「冥府からの声と、呼ばれたキラー。それがあの男……アウルディーだ」
　耐えられなくなり、七海はしゃがみこんだまま、机の脚にしがみついた。
　七海は俯き、思考を止めようとした。
　別のことを考えようとした。
　そうだ、高校時代の、つらかったことを思い出そう。
　ひとりぼっちで、昼ごはんを食べていたあの頃を。
　惨めで、一番嫌だったあの頃を。
　あの毎日に比べれば、どんな事だって……
　うまくいかなかった。
　「あなたのために言わせてもらうが、アイツは殺しても、胸の痛まない獲物を求めて彷徨っていた狂人だ。関わるべきじゃない」
　「見たんですか？」
　七海が俯いたまま、唐突に言った。
　「あなたはそれを、その目で見たんですか？」
　ウルは、しばらく間を置いてから言った。
　「いや。伝聞だ。ただし」
　七海が、何か言おうとしたのを遮る。
　「私の村の者に、嬉しそうにそれを話していたのは、彼自身らしいが」
　ウルが続ける。
　「今、私が滞在している村のものが、アイツにあるものを贈った。私はそれを買い取らせてもらうためここに来た。後は聞いての通りだ」
　ウルはこれ以上話せない、とばかりに言葉を切った。
　暫く、虚空に焦点の合わない視線をさまよわせていた。
　「つまり……あなたが……」
七海は、震える声で呟いた。
　「あなたがこなけりゃよかったんじゃないですか！　狂人呼ばわりするくらいなら、わざわざ飛行機に乗って！　贈り物を買い取る？　反則じゃないですか！　毎日、楽しかったのに、こんなに楽しかったのはじめてだったのにッ！」
　ピントのずれた怒りをぶつける。だが、迸る激情は、正論以上の正しさを持ってウルを圧倒した。
　ウルは眼を逸らした。
　「すまない」
　「すまないじゃすまないッ！　十崎さんと、九城さんを返してください、大事な、大事な毎日を、返してください！」
　「……私が言えた義理ではないが、あなたの気持ちは、痛いほど分かる。私も、またこの国で一人だったし、今も一人だ。この国に父はいるが、同年代に、囲まれての孤独感は消えなかったよ。いつか、イラクの子供達が言っていた。日本では、若者の自殺率が非常に高い、という話をしていた時だ。あんな豊かな国で、自殺するだなんて……。ぼくたちも大変だけど、日本の子たちも大変なんだね……と」
　七海の、瞬きが止まった。
　「孤独は、いつどんな場所であれ、人の心を蝕むおそろしい毒だ……だが」
　ウルは、決然と視線を上げた。
　「ミズ。あなたの学生生活に、影響を与えてしまったことを、非常に残念に思う。だが、私もやめるわけにはない。　生半可な気持ちで、この国に来たワケじゃないんだ。だが、どうしても腑に落ちない点がある。私はあなた達に、何も言うつもりは無かった。やつは何故、自分からあなたに告白した？　たとえば、私がばらしてからでもよかったはずだ。なぜあなたのそばに、私を呼び寄せた？」
　「……分かりません」
　ウルは、別の椅子に置いていたバッグを、肩にかけながらいった。
　「いずれにせよ、終わったことだ。あなたはもう、かかわらない方がいい」
　「待ってください！　もっとちゃんと説明してください！」
　「必要ない」
　　ウルは、にべもなかった。ドアに向かって歩きながら、ウルはいった。
　「マッサラーマ。あなたの学生生活が、実り多いものであることを祈ってます」
　「いきなりやってきて、人の日常を壊しておいて、勝手なこと言わないで下さい！」
　「なら、あなたも戦え」
　ウルはドアノブに手をかけながら、七海の目を真っ直ぐに見た。
　「あなたの欲するものを……日常を取り返すために。我らクルドはまさしくそのために闘っている」
　「……っ、突然、そんな、理不尽です！」
　ウルはもう、視線を逸らさなかった。
　「ミズ、あなたも、わかっているはずだ。私のことは、きっかけに過ぎなかったと。起こるべくして起きたことだと」
　七海は言葉を失った。
　図星を言い当てられ、喉に絡まった言葉が喘いでいる。
　「理不尽といったな。知らなかったのか？　いやそんなはずは無い」
　ウルは眉根を寄せ、いっそ官能的にさえ見える、辛そうな表情で、長い睫毛を伏せた。
　「闘いが始まるのは、いつも突然で、理不尽だ。そうでない戦いを私は知らない。ただ……」
　扉を抜けた、ウルの言葉のみが室内に留まった。
　「私が押し付ける側に、まわる日が来るとはな」
　
　九城は、路肩に寄せた二五〇ＣＣの愛車ににまたがったまま、深呼吸をした。
　イエス、ジーザス、ラブズ、ミー
　ホンマかいな。
　携帯から流れる、ホイットニー・ヒューストンの高い歌声が、夕闇の迫る虚空に吸い込まれていく。
　半ヘルとゴーグルを外し、歌い続ける携帯の、イヤホンについている、通話ボタンを押す。
　「聞いてましたね、九城」
　「あら、バレとった？」
　ファミコンの、カセットの中に仕掛けた、盗聴器の存在が。
　「無駄な説明を省きたいから、カバンに入れなかったんです」
　「……そっか。俺のこと、何時から気付いとった？」
　二人は、出会って以来、初めて正面から向き合った。
　「会って、二カ月くらいたってからですかね」
　「ひよこちゃんトコに、転がりこませてもろうた頃か。じゃあ一年近く、泳がせとったんや。何のつもりや？」
　「……美夜子がね」
　「……そっか」
　「あなたのことを気に入ってたし、すごく気にかけてましたから。冬なんかどこで寝てるのか、すごく気にしてましたよ」
　「敵わんな、あの子には」
　「一つ聞きたいんですが」
　十崎が静かに聞いた。
質問の内容は分かっていたし、返答如何で、自分が知っている個の中では最強の暗殺者に、首を狙われることも理解していた。
　「美夜子に近づいたのは、利用するためですか？」
　だが躊躇は無かった。答えは決まっていたからだ
　「まったくなかったとは言い切れへん。ちょうどええかもな、確かにそう思った」
　「……」
　「その上、危うくあの娘を、殺してまうとこやった」
　九城の脳裏を、今も必死で眼を逸らし続ける、記憶がよぎる。
　握り締めた拳を、弓のように引き絞るその先には……
　九城が、妹のように可愛がっていた、しっかり者で心優しい女の子の、恐怖に歪んだ表情があった。
　死んだら、許してくれるだろうか。
　また、笑いかけてくれるだろうか。
　自分の記憶って奴には、パンチもチョークも効かんから、逃げ回るしかない。
　「だから俺は、自分が許されへん。十崎、俺を殺るときは、ひよこちゃんの為や言うてくれ」
　九城は、力なく笑って続けた。
　「抵抗はせんよ」
　「早く楽になりたいんですか？　美夜子の家を出て、ちっとも良くなってないじゃないですか」
　「……」
　「自殺の手伝いに、僕を利用するのはやめてください。夕佳さんは、どうするんですか？　姉から彼女に、ジョブチェンジしたばかりなんでしょう？」
　九城の後で、バカでかいクラクションが、苛立たしげに吠えた。
　だが九城は、またがったバイクのタンクの表面をただ見つめていた。
　「俺は……」
　「小僧、耳ついとんかあ！」
　あきらかにスジモノらしい、派手なスーツを着た中年が、センチュリーの運転席から降りてきた。九城のバイクが邪魔で、スナックの前に路上駐車が出来ないのだ。
　「あなたは、美夜子のことを妹のようにかわいがり、美夜子はあなたのことを、今でも兄のように慕っています。　あの時の事は……」
　「兄貴はお前やろ。十崎」
　「オイ、こっち向けや小僧」
　細身でチョビひげをはやし、サングラスをかけた男が、うなるようにいい、九城の肩を小突いた。
　わずかに体が揺らいだ、九城の姿勢はそのままだ。
　「贖罪代わりに、美夜子の事を、お願い出来ませんか」
　九城の無理な作り笑いから、吐き出される言葉は震えていた。
　「お前がおるやろ、十崎。なんて言われても、俺には無理や。あんな事しといて、もういっぺんひよこちゃんに会う度胸なんかないわ」
　「何シカトこいとんじゃ、ボケェ！」
　九城は胸倉を掴まれ、上を向かされた。至近距離から、九城の目を覗き込んだ男は怪訝な表情を浮かべた。光のないその目は、何も見ていないのだ。
　「九城、うるさいです」
　「あ、わりぃ」
　無造作に、左手で胸倉を掴み返した九城は、男の顔を正面まで持ってくると、右手を振った。
　「……へごっ！？」
　右フックをくらった男は、確実に顎と奥歯がくだけた手ごたえを残して、道路の真ん中まで吹っ飛び、急停車したタクシーにぶつかった。
　「九城。この件から手をひいてくれませんか。僕は今夜、楽しもうと思ってるんです」
　「……十崎。この件だけ手をひいてくれへんか。もう大佐の仕事は、受けへんからさ」
　首をひねって、後ろの車から降りてきた、新手の二人をぼんやり眺めながら、九城は言った。
　「どこまでも、平行線みたいですね。たとえ九城でも、僕の楽しみを邪魔したら命はありません。警告はしましたよ……マッドドッグ・ジェイソン」
　十崎は、九城の通り名を初めて口にした。それは別れの言葉だった。
　何もかも知ってたんやな、お前。
　「そのカセット、間違ってもひよこちゃんに渡すなよ」
　通話の切れた携帯のイヤホンを外し、バイクから降りると、ドライビンググローブをはめた手を開閉して、軽く首を回した。
　「……さて悪いけど」
　徐々に光が戻りはじめた眼で、トランクから得物をとりだしている男達に、視線を飛ばす。
　ドクン、と言う心臓の鼓動に押し出された血液が、軽い頭痛とアドレナリンをもたらした。
　全身の筋肉が、空気を入れたゴムタイヤの様に、膨張していくのが分かる。
特異体質なのか、九城の筋肉の膨張率は、尋常ではない。普段からルーズファッションなのはそのためで、体格が文字通り、一回り大きくなるのだ。
　握り締めた鉄拳に、瘴気と狂気が集中していく。
　鼻腔に蘇る匂いは、ディーゼルの黒煙、突撃銃の硝煙。
　全身の血管を、イラつきで脈打たせながら、『六人殺しの狂犬』は言った。
　「俺の八つ当たりに、付き合えや」
　
　九城はバイクにまたがると、エンジンに火を入れた。
フロントガラスに、顔をメリこませたスキンヘッド、飛び膝で、顔の真ん中をへこまされて、痙攣している長髪の若者。
　新たな二人の犠牲者には目もくれなかった。
　顔についた、返り血をぬぐいもせず、九城はつぶやいた。
　「十崎……俺ら死ぬまでこんなんか？」
　九城は我知らず、虚ろな笑みを浮かべている、自分に気づいた。
　まあいいか。
　どうせ、今日死ぬ公算が高いのだから。
　それはそれで、悪い事ばかりじゃない。
　眠れない夜達の、長い長い手から、逃れる事が出来るのだから。
　悪夢に脅え、眠りの精が訪れるまで、当て所もなく町を彷徨う、孤独な夜から解放される。
　九城は迷いを振り切る様に、アクセルをふかす。
　墓の下なら、夢も見ずに眠れるだろう。
　蛮人を玉座に頂いた、血のような赤色のバンディットは、犠牲者とギャラリーを残し、弾かれたように飛び出した。
 ]]>
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		<dc:date>2011-03-11T18:26:14+09:00</dc:date>
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		<title>　第六章　ペシュメルガ</title>

		<description>　
　ウルは、男の醸し出す雰囲気が、確…</description>
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			<![CDATA[ 　
　ウルは、男の醸し出す雰囲気が、確かに変わったのを感じた。その理由は、眼差しだ。凪いだ海を思わせる穏やかなそれは、今は、生気に満ちた、輝きを放射しているのだ。
　だが、ウルの立ち直りは早かった。相手が本性を現わしたのなら、戦い方も組み立てられる。
　「ではキルクークで、二人の悪人をこらしめたのも……」
　男はにっこりと笑って言った。
　「単なるレジャーです。バカをはめるのは本当に楽しい。それだけです」
　ウルは先ほどから、この男の情に訴えかける作戦を放棄していた。今聞いたのは、この男の精神状態の、確認のためだ。やはりアリの言った通りだった。この男は狂人だ。
　知らず知らずのうちに、ウルの瞳には、敵意が宿っていた。
　「そんな目で、見ないでくださいよ。あのシリンダーシールは、僕に押し掛けガイドとして付きまとっていた、バクルという少年に、いまわの際に手渡されたものです。それは、私にとってはたいした意味を持ちませんが、金になると分かった途端、やっぱり返せと回収しにくるあなた達も、見上げた恥知らずだと思うのですが……似たもの同士ですね、僕たち」
　「貴様のような、外道と一緒にするな」
　ウルは堪えきれずに、吐き捨てた。すまない、みんな。
　「悔しいが、貴様のいうことにも一理ある。それどころか、私自身もそう思っていた。だがな、私たちが、恥を忍んでこうするのは、明日の食べるものにも事欠く、子供達のためだ。決して貴様のように、富をため込んだり、暇つぶしにあちこちをフラフラするためじゃない」
　「自分探しと称して危険地域でニートをし、母親に心配をかけている、痛い子には言われたくないですね、漆間・アスコール……」
　「黙れ！　母親のことは口にするな……！？」
　なぜこの男は、私のことを知っている？
　「あなたの事は、フランスの新聞で知りました。美人ボランティア、クルディスタンでアラブ人と、クルド人の架け橋となるか。写真付きで載ってましたよ。ご存知なかったんですか？」
　「……！　あの時のジャーナリストか。ｓｉｔ　ｈｅａｄ！　写真は撮るなと言ったのに」
　「そんな約束を守るわけがないでしょう。ということは、その後あなたの母のインタビューが、掲載されていたこともご存知ない？」
　ウルは自分の顔から血の気が引いていくのを、確かに感じた。
　十崎が、苦笑しながら言った。
　「そうですか。あなたにとって、最低なことに、母親は、アメリカで一代で財をなした、アスコール商会の社長と紹介されていましたよ」
　ウルは、めまいに襲われよろめき、壁に手をついた。はずみでぶつかった自転車が、ウルの心の中に築いていた砦とともに、倒れていった。
　「それは……」
　「約二ヶ月前です。ご存知のように、フランスには、アラブ人が非常に多い。もう情報は、とっくにクルドに伝わっているんじゃないですかね。」
　ここで男は、悪魔のように笑った。
　壁に手をついたままのウルの呼吸が、浅く早くなる。苦しい。
　「現地のイラク人でも誘拐される現況で、金持ちのアメリカ人が、一人でボランティア活動をやっているだなんて知れたら……。言わなくてもわかりますよね？」
　覆い被さる様に響く、男の声をウルは遠くで聞いた。
あの村に。
あの場所に、いられなくなる。
　やっと見つけた。私の居場所に。
　嫌だ。
　嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
　もう一人は、嫌なんだ。
　呼吸はどんどん苦しくなる。もう十崎のことは、意識になかった。
　先輩、ハシム師、ライラ、アラディン、ヌール、アヤ、ハニーン……お父さん……
　助けて。
　エンジンをかける音がした。
　ウルが、脂汗にまみれた顔をあげると、アウルディーがつまらなさそうな顔で、原付バイクにまたがっていた。
　「あなたでは交渉の相手として役不足です。相手の前で、弱みをさらけ出しているようでは話になりません。興ざめですよ」
　「待て……」
　「その前に、一つだけ確認しておきましょう。これがあなたがたの欲しがってるシリンダーシールです」
　アウルディーは、目の前にハンコ大の遺物を掲げて見せた。
　「あなたも持ってきているのなら、見せてください」
　ウルは壁によりかかったまま、苦しい呼吸を堪えつつ、バッグからシリンダーシールを取り出した。アウルディーに向けて掲げる。アウルディーは、スタンドをかけた原付から降りると、遺物を持った手を、ウルに差し伸べたまま近づいてきた。
　「手にとって、調べてください」
　アウルディーは、ウルが手を伸ばせば届く、ギリギリの距離で止まると言った。
　ウルは気力を振り絞って、アウルディーの手からシリンダーシールを受け取った。青く透明な素材に、古代の神々の姿が、彫りこまれている。
　「確認しましたか？　ではあなた方の持ってる方の遺物を、確認させてください。ニセモノであれば、検討する余地もありません」
　ウルは、サイヤーラから預かっていたシリンダーシールを、アウルディーに渡した。当然、アウルディーから、預かったほうは返さない。
　アウルディーは、受け取ったシリンダーシールを隅から隅まで丹念に観察している。ウルも、アウルディーから預かった方に目を落とした。ウルにはそれが本物かどうかを見分けるすべがない。
　だがありがたいことに、その間に呼吸は正常に戻っていった。
　「どうやら本物のようですね。考える余地がありそうです……お返ししますよ」
　アウルディーは、手に持っていたシリンダーシールをウルに返し、さっさと原付にまたがった。
　「おい待て、私のほうは返さなくていいのか？」
　ウルが慌てていると、
　「差し上げますよ……東京のアナトリア博物館で買った偽物ですから」
　こともなげに、アウルディーは言った。
　「なっ……」
　「ちなみに私が、今返した方もよく見てください」
　ウルが慌てて眼をおとすと、素材はよく似ているが、明らかなニセモノだった。
　古代の神々の神聖な姿どころか、人の頭をサッカーボールに見立ててシュートしているという、悪趣味な構図が彫込まれていた。何か字も書かれてある。
　「ダイビングヘッドだ、ワカシマズくん……貴様っ！！」
　つい読んでしまった、ウルが絶叫した。
　「イラクでも、キャプテン翼は大人気でしょう……あなたは単純すぎる。本当に相手をしていて、くだらない」
　警棒を抜き、血眼で駆け寄るウルから、アウルディーは急発進で、軽々と身をかわし、大声でいった。
　「私は盗みはやりません。先ほど研究室にいた、織河さんという女の子の携帯にあとで連絡します。彼女の傍で待っていてください。はははははは」
　ドップラー効果を残し、去っていくアウルディーの背中に、悔し紛れに警棒を投げつけたが、辛うじてテールランプに当たっただけで、アスファルトの上でむなしく高い音を響かせた。
　あまりの怒りに、かみしめた奥歯がくだけそうだ。
　上衣のポケットから、大学について以来、ずっと繋ぎっぱなしにしている携帯電話を急いで取り出した。
　「サイヤーラ、すまない。シリンダーシールを奪われた」
　「話は全部聞こえてました。あなたも状況も最低です。ターゲットの着ている服と乗り物の特徴を」
　サイヤーラのセリフに傷ついている暇はなかった。
　「黒のハイネックのシャツ、濃いブルージーンズ。黒の原付に、青と黒のハーフヘルメット」
　「了解。いま門から出てくるのを視認した。追跡を開始する」
　サイヤーラは近くで待機していたらしい。
　ウルは壁にもたれたまま、ずるずるとしゃがみ込んでしまった。
　最悪だ。
　もう何から考えていいかわからない。自分が大間抜けだとは、知っていたが、ここまでとは思わなかった。
　乾いた笑いが口をつく。
もう笑うしかない。
　そうだ。
　あの男に言われるまでもなく、知っていた。
　ボランティアだなんていいものじゃない。自分は、ただのニートだ。
　典型的な温室育ちで、おまけにアメリカでは環境になじまないムスリムとして育てられてきた自分は、本当に狭い世界で生きてきた。
　ウルは、ハイスクール進学を機に、母と別居している父を頼って、日本へやってきた。
　だが日本は、ウルが想像していたよりも、遥かに排他的な国だった。　いや、排他的というより単文化だったのだ。
　ただのアメリカ育ちならともかく、彼女はムスリムだった。彼女自身もなじめるように努力した。抵抗はあったが、極力スカーフも、頭にまかないようにした。彼女にとってそれは、下着姿で出歩くような心もとなさだったが、慣れることができた。共学ではあったが、それなりに偏差値の高い学校だったので、校風は落ち着いていた。美人だが、穏やかで謙虚な彼女は、物珍しさも手伝ってクラスの人気者だった。そうであれば、妬むものも出てくる。しかし、胡乱な目で見られたのは最初だけで、本当にただおとなしくて、恥ずかしがり屋なだけだということが分かると、手を貸してくれる者が多くなった。つまり彼女を取り巻く環境は、良好だったのだ。
　けれど。
　彼女はムスリムで、周りにはムスリムは一人もいなかった。コーランを持ち歩くものも、祈りを捧げるものも。
　彼女自身も、実際のところそれほど熱心なムスリムではなかった。日本人でいえば、般若心経を暗誦で唱えられ、盆と正月には、必ずお墓参りに行く程度のレベルだ。
　けれど、日本人がイスラム教国で、一人仏教徒として生きていくのと同じくらい、ウルが日本社会馴染むのは、難しかった。それに加え、母親との約束で、門限は五時半と設定されていた。これでは他の生徒と、本当に親しくなるのは難しいし、異性に対しては、なおさら疎遠になる。
　そういう場合、塾や予備校が逃げ道になるものだが夜遅くの帰宅を良しとしない母親に、同性の家庭教師を付けられていた。
　だが、そんなウルにも思いを寄せる人が出来た。
　それは、ある事件がきっかけだった
　文化祭の準備で、珍しく帰りが、一九〇〇時を過ぎた、高一の帰り道。
　人気のないたんぼ道で、暗がりに潜んでいた変質者に、自転車ごと押し倒されたのだ。口をふさがれ、スカートの下に手を入れられた。ウルは、恐ろしくて声も出ず、ただ場違いに美しい星空を眺めながら、アラーの御名を心の中で必死に唱えた。
　祈りは届き神の使いは現れた。
寂れた神社に続く石段から。
　夜空を切り裂くような気合が、辺りに響き渡り、急に体が軽くなった。ウルが、恐怖に体をこわばらせたまま見上げると、剣を高く構えた人型が、星空を切り抜いていた。暗くて表情も見えないその人影は、頭を押さえて体を丸めている、暴漢の右足と、右肩に、一度ずつ剣を振りおろし、その度に、短い悲鳴が響き渡った。
　「大丈夫か！？」
　若々しい、緊迫した声の主が着ていたのは、ウルと同じ学校の制服だった。ウルの肩をつかみ、呆然とする彼女を無理矢理たたせると、背後にかばう。だが、ウルを襲った男は、もう抵抗する素振りを見せなかった。地面で弱々しく、うめき声をあげているだけだ。
　「来た道を引き返して、人を呼んできてくれ。こいつをこのままにしておけない」
　ウルより少し背の低い男は、木刀を垂直に構えたまま、肩越しにいった。
　「でも……」
　「灯のあるところまで、二〇〇メートル足らずだ。走れ。大丈夫、俺にはこれがある」
　なおも躊躇するウルに、
　「行くんだ！」
　自分よりも小さく、年下に見える少年に叱咤され、ウルはもつれる足で駆け出した。運動は得意な方ではない。豊かな胸が揺れた。だから走るのキライ。
　必死に駆ける自分の呼吸音が、乱れる思考を駆逐する。
　早く、早く、もっと早く！　
泥だらけの地味なローファーが、アスファルトを叩く。
　よし！
　さすがに悲鳴をあげ出した心臓を無視し、街灯が照らす安全地帯に駆けこむ。灯がこんなに有り難いだなんて。
　でも、まだだ！
　歯を食いしばり、必死で重い足を動かす。
　いた。 
　 向こうから歩いてくるカップルに、ウルは夢中で叫んだ。
　「助けて下さい！　むこうで襲われたんです。警察を呼んで、お願い！」

　どれくらいそうしていたろう。ウルはのそのそと立ち上がった。
　そうだ。
　自分もいつか守る側に立ちたい。そう強く願って、今日まで生きてきたのだ。私がトンマなのは、今に始まった事じゃない。まだ出来る事があるなら……やってみるまでだ。ウルはおぼつかない足取りで、アウルディーが言っていた、少女がいるはずの研究室を目指した。
　
　原付で、鴨川沿いを南に向かっていた十崎は、バックミラーに映る黒い四駆に目をやった。一定の距離を保っていたそれは、通行車両が少なくなった頃をみはからって迫ってきた。十崎の顔に、イタズラ相手を見つけた子供のような笑顔がよぎる。四駆が対向車線にはみだし、一気に追い越しをかけてきて……
　並んだ。
左ハンドルのマシンを駆る、男の眼と十崎のそれが至近距離であった瞬間、迷わず両手のブレーキを握り締めた。原付の鼻面を、弧を描いた運転席の扉が掠めた。
　アスファルトに、黒い悲鳴を擦り付けながら蛇行した原付は、気性の荒い馬のように、操縦者を前に放り出した。
少し先で停車した、凸凹の四駆から降りてきたのは、地味なスーツ姿の男だった。
頭から血を流し、薄目を開けて大の字になっている十崎に、急いで歩み寄る。助け起こす所か、無造作に頭を蹴りに来たばかでかい革靴を、死んだふりをやめた十崎は、素早い動きでキャッチし、脇の下へ挟みこんだ。背中を軸にして、優雅にターンすると、男を下から蹴り上げた。派手な色のスニーカーのかかとが、慌てて逸した男の顎を掠める。
バランスを崩した、男の足に下からからみつきしりもちを着かせると、抱えたままの右足を、両膝で挟み込み、ヒールホールドと呼ばれる技を決めにかかった。その気になれば、一瞬にして足を破壊することが可能なため、多くのアマチュア競技では禁止されている危険な技だ。
　男は冷静に、自由な方の足で十崎の肩を蹴り、身をひねって脱出した。両者とも身軽に立ち上がると、互いに距離を……とらなかった。
うなじの毛が逆立つような、男の右のパンチを躱しざま、十崎はタックルで片足を捕りに行く。
捕らえた。
だが狙いはテイクダウンではなかった。足に回した腕をすりあげる。
　「ぐっ」
　手首で股間を打たれ男の動きが一瞬止まると、十崎はするすると背後に回り、あごの上から首を決めた。フェイスロックと呼ばれる技だ。転倒の際に、破れたシャツの袖からのぞく擦り傷だらけの腕が、持ち主の怒りをあらわすように怒張し、見事なカットをさらけ出す。
　「あんまり知られてないんですが」
　十崎はくぐもった呻き声を、わずかに洩らすだけの男の耳元に囁いた。嬉しくて嬉しくて、仕方がないという風に。
「このまま後ろに歩くだけで、あなたは死ぬんですよ？　頸椎がポッキリ折れてね」
　突然、十崎がとびすさった。
　銀色に光るナイフが描く弧から身をかわした、十崎に向き直った男は、首の具合を確かめながら笑った。
　「強いですねぇ、油断しました……なんだか、優先順位が変わってしまいそうです」
　「あなたもなかなかのものですよ。あの日本語のうまい女の仲間ですよね？　何故、あなたが来なかったんですか？」
　「……あの女が、自分でやると言って聞かなかったからですよ。申し遅れました。私、物部（ものべ）と申します」
　十崎は、嬉しそうに微笑んでいった。
　「……これはご丁寧にどうも。ついでに住所も教えてくれたら、特上寿司とデリバリーピザを、千人前ほど届けてあげるんですが」
　「あいにくダイエット中でして。少し運動に、付き合っていただきますよ」
　具合を確かめるかのように、軽くナイフを振ると、物部は一八〇センチ一〇〇キロはあるだろう巨体に似合わない、滑るような足取りで十崎に近づいてきた。
　立ち位置が入れ替わり、物部の乗っていたアメリカ製の凶器を背後に背負う形になった十崎は、物部の後の鍵穴の壊れた、あきらかに盗品とおぼしい改造バイクに目をやり言った。
　「言われなくても、昨日拾ったばかりの僕の愛車の仇は取らせてもらいます……」
　十崎は、両手をだらりとたらしたまま、半身になって構えた。
　当然だが、ギャラリーがちらほらと現れはじめている。次の一合で片を付けるつもりなのだろう、物部は前に出た。
　しかし。
　会心の笑みを浮かべると、十崎は続けた。
　
　「九城がね」
　
　即座に言葉の意味を理解した物部は、一瞬逆側にフェイントをかけると、大きくサイドステップして背後の敵を振りかえった。
　そして、そこには。
　遠巻きに眺める二、三人のギャラリーがいただけだった。
　悪鬼の形相で振り返ると、十崎が物部の車に、乗り込む所だった。
　「そこそこやりますが、あなたも、あの女と変わらないまぬけです。さーて、クラッチは、どーこーかーなー？」
　物部は怒りに沸騰した形相で、懐に手を入れたが、辛うじて思いとどまったようだ。
　「こんなに楽しい時間は、久しぶりです。御礼と言ってはなんですが、取引に応じましょう」
　目を見開いた物部の前で、チェロキーが、ドロドロという音をたてて、進み始めた。
　「後で、あの女に連絡します。ごきげんよう。ハハハハハハ」
　窓から直角に出した手を、ピコピコ振りながら去っていく、十崎を乗せた自分の仕事道具を、殺意に燃える眼で見送っていた物部だったが、早足で最寄りの駅に向かって歩き出す。
　その彼の背中を、つかの間の役目を終えた盗難バイクが見送った。
　
　十崎は上機嫌で、南に向かって戦利品を走らせた。血止めのタオルを、頭に巻いたその顔は、日曜日にゴルフか釣りに出かける、お父さんのような笑顔で輝いていた。
シートを前に調整しないと、足が届かないことに軽くムカついたが、そんな些細なことは問題にならないほど、ハイだった。
　「さて、役者はそろいつつあります。あとは舞台ですね」
　十崎は、右手で携帯電話を開いた。
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		</content:encoded>
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		<title>第五章  君の胸でいつまでも</title>

		<description>　
　翌日。
　「おはようございまーす……</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　
　翌日。
　「おはようございまーす……あ、暖かいラッキー」
　朝一番で、研究室の扉を開けると、部屋には十崎がいるだけだった。誰か先に人が来て、部屋の暖房を入れてくれているのはありがたい。
　この人、健康とは縁が遠そうなのになんでこんなに早起きなのかな、と七海は思った。
　「寒いのに早いですね、十崎さん。御年寄りみたい」
　十崎はにっこり笑って言った。
　「織河さんは、寒いのに子供みたいに元気ですね。　飴玉をあげましょう」
　「わーい、やったー」
　ほんとに飴玉を差し出された七海は、喜んで受け取った。
　「十崎さん、十崎さん。これみてください」
　七海は着ているワンピースの前掛けボタンを順に外して、首に掛けている鎖を引っ張り出そうとした。
　「朝から、それほどでもない胸を見せてくれるんですか？　うれしくありません」
　「ちがいます！　悪かったですねっ、それほどでもなくてっっ！」
　穏やかに微笑む十崎の台詞に、一気に気分を害したが、七海の取り出したもの、に表情が変わったのを見て、してやったりとほくそえんだ。
　「……それ、どうやって穴をあけたんですか？　開いてなかったでしょ？」
　件の円筒印章に、鎖を通して、ペンダントにしたのだ。
　「知り合いのおじさんに、ドリルで開けてもらったんです」
　十崎は、慌てて腰を浮かして円筒印章を手にとり、顔を近づけた。
　「油をつけたり、傷をつけたりしてないでしょうね？」
　「大丈夫でーす。くれぐれも慎重にってお願いしましたから。そもそもシリンダーシールって、こういう使い方もあったんでしょ？」
　円筒印章を手にとって、試すがめつすしている、十崎の頭のつむじを見ながら、得意げに言った七海だったが。
　「……ほんとに、僕を退屈させませんね、あなたは」
　顔を上げた十崎に、超至近距離で微笑まれ、七海は心臓の鼓動が、不自然なまでに大きく跳ね上がるのを意識した。
　色白。優しげなまなざし。中性的な雰囲気に痩身。
　よく考えたら七海の、
　「タイプうー。手ェつなぎてー」
　であった。
　七海は、顔が赤くなってない事を祈りながら、
　「そ、それはどうも、どうも」
　と返事するのがやっとだった。
　あなたのことがとっても気にいりましたよ
　鼻二つ分くらい先の、十崎の瞳が語っている気がするのだ。あくまで気、だが。
　十崎の吐息からは、コーヒーの香りがするが、不快ではない。
　私、お口……大丈夫だよね？
　そうだ、昨日食べたのは鯛の兜煮だ、大丈夫。
　今となっては、バクバク音を立てる心臓に、視界を揺らされる七海。
　すっと身を離すと、十崎は背中を見せていった。
　「なるほど、これからそのシールは、あなたの柔肌で、ずっと保護されるわけですね……それほどでもない、胸の間に挟まれて」
　七海は十崎の後頭部に、全力でペンケースを投擲した。
　
　ウルが京都大学の最寄り駅、出町柳駅に着いたのは一五三〇時頃だった。昼過ぎまで寝ていたので、時差ぼけの影響はない。
　一応、それらしい交渉の代理人に見せかけないといけないので、パンツスーツ姿だ。この姿で、柞の木は持ち歩けないので、皮製のショルダーバッグには、サイヤーラに頼んでおいた催涙スプレーと、特殊警棒が入れてある。ゆったりとスカーフを頭に巻きつけているのは、長年のムスリムとしての習性だ。
穏やかな日差しの中を二〇分ほど歩くと、大学の裏門の一つに着いた。入学の時期なのか、生徒が作ったと思しき、派手派手しい巨大な立て看板が、あちこちに飾ってあった。自分の学生生活など、遠い過去のように思える。自分がこの一年ほどで、とても年をとったように思えた。
　昨日の、ハシム師との会話を思い出し、思わず独り笑う。マスードの言葉をそのまま伝えたのだが、あんなに興奮している師は初めてだった。どうやら、マスードの言っていた事は嘘ではないらしい。
　サイヤーラによれば、交渉相手の住居は、ここから駅ひとつ離れた、学生用のワンルームマンションだが、ほとんどそこには帰ってないらしい。ならば、彼の通う大学で接触するしかないだろう。この時間なら、全ての授業は終わっているかもしれない。もちろん帰宅している可能性もあるが、別に今日は下見で終わってもかまわない。
　アメリカのキャンバスと比べても、遜色ないほどこの大学の敷地は広く、また学部によって分散している。
　ターゲットのいる場所は、文学部らしい。それがどこにあるのか、尋ねようにも事務局の位置がまたわからない。　学生に聞くのが手っ取り早かろう。そう考えていると、後ろから声が近づいてきた。
　「おー、十崎か？　今どこ？　え、学校とちゃうんか？　うん、うん。え？　考古学研究室で待っとけばえーんか？　いつなるん……あーわかった。おれ？　えーとな」
　ウルを追い越して行った男が、三メーターほど先で立ち止まって、あたりを見回した。
　「環境学部やな。わかった、も少ししたら研究室向かうわ。文学部のやろ？ＯＫ、チャオ」
　パーカーに、ジーンズ姿の体格のいい男は、携帯を畳むとポケットにしまいこんだ。
　男をみつめていた、ウルと眼があうと、
　「Ｈｅｌｐ  ｙｏｕ？」
　ウルは男の話す英語につられ、同じ言語で問い返した。
　「文学部の、考古学研究室を、さがしているのですが」
　「それなら俺も、今から向かうところだから。ついてきて」
　男の口調に、浮ついたものは感じられなかったので、
　「助かります」
　とだけ返事し、二メーターほどの距離を置いてついていく。
　
　同時刻。
　七海が研究室に顔を出すと、そこにいたのは十崎と桃井、あと二人の研究生だけだった。
　後頭部に、わざとらしく絆創膏を貼った十崎が、普段どおり声を掛けてきた。
　「こんにちは」
　「……こんにちは」
　半眼で、いやいや挨拶を返す七海。
　「織河さん、九城をみませんでしたか？」
　席に着く七海に、十崎が問うてきた。
　「知りません。なにせ、それほどでもありませんから」
　隣で桃井が笑いをこらえている。十崎が喋ったのだろう。
　「まあまあ。僕のことをガリモヤシと言った件であいこですよ。ちなみに二度目はありませんからね」
　「言ってません。なんです？　気にしてるんですか？」
　七海は意地悪く笑いながら言った。
　「ええ、体重六〇ｋｇを切ったら、自殺するって決めてますので……今怖くて、体重計に載れないんですよ。織河さんが羨ましいです」
　「そんなにありません！……確かに、食べ過ぎたらすぐ太っちゃいますけど」
　ここで徐に、七海はフゥとため息をついた。
　「何食べても、体重が増えない誰かさんがうらやましいです」
　「……むかつきますね」
　いつもの笑顔だが、眉間にしわが一本よっていた。
　七海は悪魔超人に、一〇ｐのダメージを与えた……と思う。
　へへーんだ。
　七海は舌を出した。
　もう、許してあげてもいいだろう。
　「さっきの話ですけど、九城さんは見てませんよ？」
　「そうですか。電話も繋がらないんですよ」
　
　九城とウルは、ほとんど会話もせず、文学部の棟に着いた。
　「誰に用事？　呼ぼうか？」
　「ミスター・カジワラ、を訪ねてきたのですが」
　男はシャープな顔に、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、直ぐに笑顔で言った。
　「カジワラって、俺くらいの身長で細くて眼鏡かけたヤツ？　いや、二人おってさ」
　「もう一人は？」
　ウルが他意なく問うと、一瞬詰まってから男は答えた。
　「えーと……身長が二メーターくらいで、髭生えてて、得意技はアックスボンバー」
　まるで、ステイツのプロレスラーのようだな。
　「……？　おそらくあなたくらいの、身長の方だと思います。」
　「それなら、俺の友達だな。さっき携帯で連絡してた男だ、もう少しここで待ってたらくるよ」
　と伝える。
　「ああ、お知り合いでしたか」
　アウルディーの知り合いと、話すことになるとは思いもよらなかった。
　この男から、情報を仕入れておくべきか、ウルは迷った。
　その際どこまで、自分のことを話すべきか。
　先ほどの携帯での会話を聞く限り、この男もアウルディーに用があるようだし、立ち去りそうにない。
　「十ざ･･････カジワラと知り合い？」
　来た。
　「いえ、直接の知り合いではないのです。共通の知人から、日本に行くなら会ってくれと頼まれて」
　できるだけ真実を話すこと。それならぼろがでない。
　「……そっか。あいつ英語はなせるのかな」
　「ああ、私は日本語が話せるので」
　突然、流暢な日本語に切り替えたウルに、男は驚いたようだ。まじまじとウルを見つめる。
　「なんや、そうなん？　おどろいたな。」
　「あなたが英語でしたからつい」
　「ほとんどなまり無いな。まぁ京都では、ときどきいるけど」
　「そうなんですか」
　「この辺学生の町やしな。留学生もようけおる。けど、自分みたいに、流暢な日本語話せる人は珍しい」
　「ありがとうございます」
　その後、当たり障りのない会話を続けたが、頃合いを見計らって、男は携帯電話を取り出した。
　「あいつ遅いなぁ。こっちからじゃなくて、裏口から入ったんかな。……十崎？　今どこ？……ああそうか、すぐそっち行くわ。お前にお客さん」
　携帯を閉じると、男はウルを促した。
　「行こう。もう、上にいるみたい」
　
　リノリウムばりの、薄暗い廊下を階段に向かって歩きながら、ウルはひそかに呼吸を整えた。やはり緊張する。白昼衆人監視のなかでとはいえ、自分が相対するのは、楽しんで人を殺すような類の人間だ。
　「うーっす」
　男が挨拶しながら、大きな鉄扉を開けると、中の人間が一斉に振り向いた。だがその視線は、すぐに男の背後にいる、自分に向けられた。
　「お前にお客さん。ごっつい、美人やけど、誰？」
　男は机に座って、かわいらしい女の子と、談笑していた人影に声をかけた。黒のハイネックのシャツを着たその男は、ウルに視線を向ける。澄んだ瞳に、微笑をたたえた色白の顔は、ウルの予想を裏切り、病的な印象を持っていなかった。このどこにでもいそうな、線の細い男が殺人狂？　ウルは相手を違えている、危惧を抱いた。
　「十崎さん、誰ですか、このすっごい美人？」
　呆然とこちらを見ていた、十崎の話し相手の少女は、興味深々で尋ねた。
　トザキというのは、ニックネームだろうか。でなければ、何故アリから聞いた、カジワラという名前で、この男に通じたのだろう。
　「そうですね。かれこれ会って、三秒くらいの中です」
　トザキと呼ばれた男――アウルディ――は淡々と答えた。
　考えるのは後だ。ウルは静かに入室し、軽くひざを曲げてメイドのようにお辞儀すると、あらかじめ用意してあった。挨拶を口にした。
　「アッサラームアレイクム、アウルディー。シレルキャンプの、アブ・ハシムの使いでまいりました。漆間と申します」
ウルは、近頃、滅多に口にしなかった、姓を名のった。
　「これは懐かしい。……イマーム・ハシムは、ご健勝ですか？」
　ウルは確信した。この男がアウルディーだ。
　「はい。くれぐれも、カジワラ様には、よしなに、ということです。」
　周りの学生は、みんな困惑していた。会話にまったくついて来れないようだ。
　「ちょっとゴメンな。十崎、じゃあオレ行くわ。このファミコンのカセット……パクられたら困るから、ちゃんと持って帰って、ひよこちゃんに渡しといて」
　「……わかりました」
　「それじゃあな、ミズ」
　「ありがとうございました」
　男が扉から出ていったのを見送りながら、十崎もまた立ち上がって言った。
　「さて、我々も場所を移しましょうか」
　
　ウルは、十崎と文学部の棟を出て、人気のない自転車置き場で、向かい合った。
　目立たない、穏やかな容貌。彼が本当にアウルディーなのか。
　自分の抱いていたイメージとのギャップに、未だ苛まれるウルであった。
　「こんな場所で申し訳ありませんが、誰にも聞かれない場所ということになると、限られてしまいますので」
　男から渡された、ゲームのカセットを掌でもてあそびながら、十崎は言った。
　「いえ、構いません」
　「で、どのようなご用件で、はるばるイラクからこちらまで？」
　「ウスマン老を、覚えておいでですか？」
　「……シリンダーシールの件ですね。まあ想像はついていました」
　「単刀直入に申しあげます。買い取らせて頂けませんか」
　「……これは驚きました。やっぱり返せ、と言いに来たのかと思ったのですが。提示額はいくらです？　あの村に、そんなお金があるように思えませんが」
　淡々としたの失礼なものいいにも、ウルはさほど腹を立てなかった。礼儀を欠いているのはこちらなのだ。
　それよりも、目の前の男の、物怖じしない態度に気を引き締めた。
　「七万ＵＳ＄」
　十崎は失笑した。
　「……へえ。そんな大金どうやって用意するつもりです？」
　ここからが、きわどい話だ。ウルは慎重に、言葉を選んだ。
　「この国で買い手がつきました。ウスマン老の所持する、もう一本と合わせて売却します」
　「いくらで？」
　「……それはご想像にお任せします。七万ＵＳドルは、さまざまな諸経費や、リスクを差し引いた金額です。あなたは何の危険も犯さずに、大金を手にすることができます」
　「ならお聞きします。たとえば、私が取引に乗るとして、お金はいつ支払われ、私はいつあなたがたに、シリンダーシールを渡せばいいのですか？」
　ウルは答えようとして、その回答が用意出来ていなかった事に、気付いた。
　「それは……シリンダーシールを、先に預けていただいて、売却した後に費用を……」
　ウルはそれを口にしながらも、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じていた。自分はケチな寸借詐欺師です、と言っているかのようだ。
　「……聞き返すのも、馬鹿馬鹿しいですが、私が今から家に引き返して、シリンダーシールを取ってくるので、お金を先にください、と言ったら、あなたお金を渡しますか？」
　「……」
　「つまり最低でも、取引の現場に、私がいなければならないわけです。どこがノーリスクなんです？」
　ウルは、うつむいて言った。
　「……おっしゃる通りです。あなたが我々の同胞だと思いこみ、甘えておりました」
　十崎は、少し驚いたような表情で言った。
　「どこから、そんな発想が出てきたんですか？」
　「あなたは、クルドの軍事組織、ペシュメルガの一員だったのでしょう？」
　ウルも本で読んだだけだが、クルド人でもペシュメルガの隊員になるのは難しいはずだ。
　まず四十五日間監視され、スパイでないが、適性があるかを、徹底的に調べられる。パスしたものだけが、三カ月の訓練に参加することができ、その内容は、政治や軍事、武器の使い方、ゲリラ戦のトレーニングに、三日三晩山中を歩くなど、多岐にわたる。クルド語や、英文学を読むクラスまであるらしい。
　外国人であるこの男が、入隊できたという事実が、いまだに信じられない。
　ウルは、ぎょっとして顔を上げた。
　笑ったのだ。
　淡々と語っていたこの男が、顔を逸し、おかしくてたまらないというように。
　そしてそれは。
　「あなたがたのおめでたさ、失礼、純粋さには脱帽です。私がイラクくんだりまで行った、本当の理由をお教えしましょうか？」
　この男が、自分の正体をさらけ出す、オーバーチュアであろうことをウルは感じた。
　十崎は、屈託のない笑顔で言った。
　「退屈だったからです。ただ、それだけですよ」
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		<dc:date>2011-03-10T19:19:08+09:00</dc:date>
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		<title>　第四章　サイヤーラ2</title>

		<description>「なあ……この体たらくはなんだ？」
　ウ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 「なあ……この体たらくはなんだ？」
　ウルは、断続的に伝えられる衝撃を、こらえるため天井に手を、前方のシートに膝をつっかえさせて聞いた。
　二台の四駆が、後ろからクラクションを鳴らしながら迫り、時折バンパーをぶつけてくる。片側一斜線の一般道を、西に向かって三台は走り続けた。マスードの運転は、年齢に似合わず巧みで、前方に回りこまれるのをうまく防ぎながら、七〇ｋｍ／ｈ台をキープし続けた。
　「すまん、客人。全てわしのせいだ」
　「そうだな、お前達のせいだ」
　幸が、不満げにこちらを見たが、ウルは冷たく燃える怒りの視線で迎えた。
　「降りる。車を止めろ」
　ウルは、低い声で言った。
　幸が白けたように言った
　「眼と耳ついてるか？　今車止めたら、パンティ共に、よくて粗末な股間のブツで穴だらけ、悪けりゃ殺されるぜ」
　「それは私のせいか？」
　怒気を孕ませて、ウルが幸に言った。
　「あいつらにそう言や、見逃してくれるかもな」
　幸が、能面で答えた。
　「どのみち、今回の計画は無しだ。ポリスが絡んでくる」
　ウルは横を向いて、吐き捨てた。
　交通量が減ってきた。まるでわざわざ寂しい方にむかっているかのようだ。
　「いや、客人。それはない。アラーに誓って言える……サイヤーラが依頼を受けたんだ。　今夜のトラブルはなかったし、奴らはこの世に存在しなかったも同然になる。」
　「これ以上、おかしな犯罪に関わるのはごめんだ。降ろせ」
　「おいおい」
　幸が、あきれたように振り返った。
　「イラクくんだりからここまで、愛と平和でも説きに来たのか？　僕たちゃ、陽気でおしゃまな密輸団だ。とっくに、あんたは犯罪者なんだよ」
　「違う。お前達といっしょにするな」
　ウルは語気を強めた。
　「客人。あなたはただ、話を持ちかけるためにこの地へ来ただけだ。何の法律も犯してないし、わしらとは無関係。行き先が同じじゃから同乗させただけだ。と、同時に今この車から降りられても、交渉から降りられてもわしの面目は丸つぶれになる。そこでだ」
　マスードは、反対車線へ回り込んできたメタルブルーのハイラックスを、ちらりと見た。巨漢が、折れてないほうの手に握った木刀を窓から突き出して、屋根に叩きつけてきた。耳を聾する金属音に、ウルは顔をしかめて、そそくさと反対側の席に尻をずらす。
　マスードは、ハンドル操作で距離をとりながら、淡々と続ける。
　「取引しないか？　金じゃないが、君が喉から手が出るほど、欲しがる物をやる」
　「それは、興味深いな」
　ウルは、窓の外に目を向けたまま、興味なさげに言った。コートの下では油断なく、柞の木を握り締めている。
　「君の住んでいる村の辺りは治安が悪そうだな。わしはあのあたりに顔が利く。わしが言えば、おそらくスンニー派の襲撃に関しては、止まるだろう。」
　ウルは一瞬驚いたが、まなざしに疑いの色を濃くして聞いた。
　「あなたは、イラク人ではないだろう？」
　「イラクの北部には、アフガンからの民兵が、多く流れ込んでいる。知っているだろう、過激派と呼ばれる連中はほとんどが、外国から紛れ込んできたイスラム教徒だ。それに、あのあたりの部族長たちとは親しい。可能だ」
　木刀が、屋根を叩く音でうるさい。
　「私はそれを、どうやって確認すればいい？」
　ウルは半信半疑で、問うた。
　「そうだな、ミズはシレルキャンプから来たといっていたか。ハシムの小僧はどうしておる？　アフガンの戦闘に、参加しに来たときは、初陣でがたがた震えておった。いっしょにおった眼鏡の小僧……名前は忘れたが、頭の良い奴だった。二人とも、基地内でアイスクリームを食わせてやったら、あまりのうまさに叫び声をあげておった」
　「ハシム師と、アリさんを知っているんですか？」
　ウルは思わず、驚きの声をあげたが、
　「師？……こいつは、驚いた。わしも年をとるはずだ」
　話しながらも、マスードは、鋭くハンドルを切る。
　対向車がやってきて、ハイラックスは、やむなく元の車線に戻った。
　「マス爺、とっつ……いや、サイヤーラは、いつ来るんだ？」
　幸が、じりじりした口調で聞いた。
　「もうそろそろ落ちあうころだ。客人、あとでハシムに、連絡を取ってみるといい。マスードが、つぎに会ったときは、ストロベリーアイスをご馳走してやると言ってたのを覚えているかとな」
　「今の話を……」
　「アラーに誓う。取引の話に乗ってくれるかな？」
　ウルは、スカーフから覗く両目を、煌かせながらいった。
　「そういう話なら、願ってもない……それに」
　ウルはコートの下から、ゆっくりと柞の棒を抜き、胸の内で語りかけた。
　友よ、目を覚ませ。
　「いい加減、駄犬どもの鳴き声には、うんざりしていたんだ」
　ノラ犬狩りの時間だ。
　ウルは、コートを脱いで膝の上にかけ、得物を隠した。
　「イヌどもの、運転席に寄せろ」
　「おお、かっけー。急にやる気になったなあ　姉さん」
　感極まったような、幸の嬌声を無視して、ウルは、タイミングを計ることに神経を集中した。
　かなり凹凸になった軽が、対向車線に入り、スピードを落とした。徐々にウルの座っている助手席側の後部座席が、ハイラックスの運転席に近づき、運転席の男が、興奮した表情で、ウルに向かって何かをわめき散らした。
　並んだ。
　武器を握り締める、右の二の腕の筋肉が膨れ上がる。左手は添えるだけ。
　「窓を開けろ」
　言われたとおり、マスードがウルの左側面の窓を開けた。
　正義は我にあり。
　愚かなことに、相手の男も、運転席の窓を開けた。
　バカが。
　「ぜええええええいっ！」
　裂帛の気合と共にくりだされた、ウルの渾身の突きが、開きかけた男の口に飛び込み、前歯の大半をへしおった。
　運転していた男は、陸に揚げられた魚のように痛みに暴れ、道路から逸れたハイラックスは、竹林に突っ込む。
　「……すげえ」
　幸が、やっとそれだけをつぶやいた。
　「後一台だな。寄せろ」
　ウルは、何事もなかったかのように次の指示を出した。
　　「……客人。唯乗っていてくれてるだけでええんじゃが」
　マスードが、言いにくそうに言った。
　「……そうなのか」
　ウルが、きょとんとした顔で聞き返した。
　「あれ、生きてるかな」
　バックミラーを見て、幸が不安そうにつぶやく。
　ウルは構えを解き、スカーフの下で皮肉っぽく口元を歪めた。
　「お優しいことだな。殺したいんじゃなかったのか？」
　幸がむっとして、シートの隙間からこちらを睨んだ。
　「勘違いするんじゃねーよ。死体が出たら、後始末に費用がかさむんだ……にしても迷いねーな、あんた」
　「やるときは、絶対に躊躇うな。剣術の師匠の厳命でな」
　ウルは、棒に付いた血を、車内のティッシュでふき取りながら答えた。
　　マスードが、やれやれと言った感じで尋ねる
　「反射的に、言われたとおりにしちまったが……喉をついたのか？」
　「口の中だ。前歯が何本か折れたろうな。まあ、死んだとしても、お互い覚悟の上での勝負だ」
　「いや、向こうは明らかにしてねーだろ」
　幸が突っ込む。
　「エアバッグがあるから、死んではいないだろうが……あまり現場を広げると、サイヤーラが苦労する……驚いたの、まだ追ってくる」
　もう一台の、臙脂色のハイラックスは、止まることなくついて来た。
　あちらも、常軌を逸している。
　「で、どうする。座っているだけでいいなら、ありがたい」
　幸の携帯が、流行のポップスを歌いだした。
　「……電話……。サイヤーラ！　……ハイ、幸。え、そっちから見えるの？　どこ？そう、後の赤茶色の四駆。一台はやっつけた。で、どこにいるのさ？」
　竹林に囲まれ、ぽつぽつと街灯があるだけの、交通量の途絶えた片側一車線の道に、二台の車の走行音が響く。
　「どこ？　わかんねえよ。え、次の曲がり角？」
　ぼろぼろになった軽が右折可能な道を、通り過ぎた瞬間だった。
ライトを消した、四角い車が横合いから、獲物に襲いかかるかのように、サーフの後部にかなりのスピードで激突した。
工事現場で、鉄板を落としたかのような緊迫した轟音が響きわたり、ハイラックスはブレイクダンサーのように回転する。
　黒塗りの四角い車は、群生している竹を何本か折り敷いて止まったが、男達の乗った車は、竹林の奥深くまで突っ込んだ。マスードは車をゆっくりと停車し、ため息をついた
　「もういい……視認した。」
　幸が、呆然と携帯電話につぶやいた。
　ウルを含め、三人は車から出た。息が闇夜に白い。
　蒸気を派手に上げた四駆が、尻をこちらに向けて止まっている。
　下手人の、黒い車がバックで動き出した。
　ごついぼろぼろのアメリカ製４ＷＤだ。
　前方部は、ロールバーで強化している為か、傷らしい傷は見えない。
　運転席から油で汚れたつなぎ姿の男が降りてきた。年は四〇前後だろうか、五人の中にいた巨漢より、一回り大きい、顔中無精ひげに覆われ眼には変わった形のサングラスを掛けている。
　男はこちらに一瞥もくれず、無造作になぎ倒された竹林に踏み込み、車中を確認した。
　驚いたことに、軍手をはめた手には、何の武器も帯びていない。
　運転席を開け、気絶してこちらによりかかってきた男をうっとうしげに突き飛ばした。
　しばらく上半身だけを車内に入れて、ごそごそとやっていたが、一分もしないうちに、手ぶらでこちらの方にやってきて、ウルたちの前に立った。
　街灯もない、漆黒の闇の中で、細い月の光が、その姿を映し出した。熊のような巨躯に、疲れた表情をのせたその男は、どこにでもいる労働者に見えた。近くで見てわかったのだが、掛けているのは、サングラスではなくセーフティーゴーグルだった。無精ひげの生えた顔立ちは、特に人目を惹きつけはしないだろう。
　ガタイのいい、一見どこにでもいそうな中年男だ。
　ただ、その佇まいは何か見ているものの心胆を、寒からしめる雰囲気を放っていた。その元凶は、男の眠そうにすら見える、白けた目つきだ。
ポリカーボネートでできた、レンズ越しに見えるこの世のすべてに興味がなさそうな、醒めた眼差し。
それは、男の素性を物語る、履歴書に思えた。
　「車内のカバンと、ダッシュボードを漁ったら、合成麻薬がわんさか出てきました。二人とも生きているようですし……安く済んでよかったですね。マスード」
　錆を含んだその声は、世間話をしているようにしか聞こえなかった。
　「まったくじゃ、ついかっとしてしもての。よく考えたら、あんな奴らのために、無駄に金を使うのは、馬鹿馬鹿しい」
　老人は、照れたように笑った。
　「後は、もう一台の方ですね」
　男は振り返り、二〇〇メートルほど離れた場所で、竹林の檻に自ら閉じ込められている四駆を見た。
　「とっつあん、あれ！」
　幸の緊張した声の先に、皆が眼を向ける。
　先ほどサイヤーラが、漁っていた車が揺れている。程なく後部ハッチが開き、マスードに、片腕を折られた巨漢が降りてきた。
いいほうの手に、バットを握ったその男は、左脚を引きずりながらこっちにゆっくりと向かってきた。
狂気に支配されている、血だらけの形相をみれば、挨拶しに来たわけではないのがわかる。
　ウルは皆から一歩さがった。自分は、遠慮するという意思表示だ。
　サイヤーラは、男をセンスのない壁の落書きでも眺めるような顔で言った。
　「幸」
　「んだよ」
　巨漢から眼を離さず、返事をした幸だが、
　「お前がやれ。武器は持ってるな」
　その台詞にびっくりして、サイヤーラを振り返った。
　「な……あいつ、私より三〇センチはでけえぞ！　も少し初心者向けからいこうぜ！？」
　サイヤーラは、五メートルの距離まで近づいて来ている男を眺めながら、めんどくさそうに言った。
　「相手は手負いだろうが。やれ。なんなら銃を使うか？」
　幸は何か言い返そうとしたが、忙しなく、巨漢とサイヤーラを見比べると、
　「やってやるよ！　なめんじゃねー！」
　やけくそ気味に喚いて、背後に手を回した。
　パチン、とボタンを外す音がすると、トレーナーの背中から、何かがすべり落ちてきた。
　それを右手で引っつかみ、体の前で構えて喚く。
　「明日から、幸さんって呼びやがれ！」
　それは短い木刀だった。いや、鞘に収まったままの、短刀だ。
　いわゆる、昔の任侠映画で出てくるような、無粋な代物である。
　しかし、その白鞘は彼女の肌のように白く、工芸品の様な趣を備えており、美少女と匕首という、およそ似つかわしくない組み合わせを、鑑賞に堪えるものにしていた。
　「私は、弱くない……私は、地獄を見たんだ」
　小刻みに震えながら呪文を呟く幸を見て、ウルは異を唱えるのをやめた。
　彼女もまた、闘わなければならない理由があるのだろう。己の闇を抱える者独特の、張り詰めた暗さを、ウルは幸から車の中で感じ取っていた。
闘いたくはないけど、やらなければいけない。
もう二度と、あんな思いはごめんだから。
諦念にも似た、覚悟で織られた……四六時中、脱ぐことの出来ない外套。
ウルは、幸にシンパシーを抱いた。
ウルは柞の棒をだらりと下げたまま、緊張で固まっている、幸の横に並んだ。
　「動け。居つくな」
　ウルが低い声で忠告すると、幸ははっとして横に飛んだ。剣先をむけたまま、巨漢から見て反時計回りに、軽やかなステップでサークリングする。黒髪と白い息が、宙に舞った．
　ウルは、棒をぶらさげたまま自分の存在を強調するかのように、ゆっくりと逆方向へ歩く。気の弱い人間なら、腰を抜かしそうな殺意に満ちた視線を、横目で送りながら。その様は、血刀を引っさげた、古代インドの殺戮の女神、カーリーを連想させた。
幸の柑橘系のシャンプーの香りと、ウルから立ち上るスパイシーな香気が攪拌されて、周囲に漂った。
　月明かりだけが、朧に照らすアスファルトを、美しい破壊神がひたひたと歩を進め、可憐な戦乙女が舞う。
　巨漢は当然、まずウルを潰しにかかった。ウルはバックステップで、ぎりぎりの間合いを保ち、どんどん後ろに下がる。棒は構えない。受けたところで、力負けするからだ。男は引きずった足のせいで、間合いを詰められず、バットを振り下ろせないでいた。ウルの戦術は単純だ。ひたすら下がり、幸にチャンスを与える。あくまで闘うのは彼女だ。そのとき、予測していなかった事が起こった。
痛めている筈の足で、地面を蹴った男が、一気に間合いを詰めてきたのだ。
ウルは、眼を見開いた。
　「フリか！」
　銃声が、夜気を切り裂いた。
　男の動きが、一瞬だけ凍りつく
　しかし、次の瞬間、明確な殺意を持って、袈裟に振り下ろされるバット。身をかがめ、斜めに掲げた棒で擦って逸らせることができたのは、はっきりいってまぐれだった。ウルは、相手の右脇をくぐり抜けざま、横殴りに腹を打つ。
　剣道で言う、『抜き胴』だ。
だが、体勢を崩していたためか、ほとんどダメージは与えられなかった。
　男の振り向き様、横殴りに襲ってきたバットから、間一髪逃れる。
そのウルと、すれ違うかのように、シトラスの疾風が走り抜けた。
　「お客に、なにしやがる！」
　威勢のいい掛け声とともに、幸が跳んだ。
　「ごっ」
　顔の真ん中に、ずっしりと重い鞘付きの匕首をたたき付けられた巨漢は、バットを取り落として顔を覆った。
　着地した幸は、二、三歩行ってバレリーナのように優雅にターン、巨漢の方に踏み込むと、左手に持った、小型のスプレーを噴射した。
「ぎぁっ！」
　催涙スプレーを浴びせられた巨漢は、女のような悲鳴をあげ、眼を押さえた。文字通り、うずくまって転げまわる。
　「ううらぁぁぁぁぁぁ！！」
　幸は雄叫びを上げると、うずくまっている男の頭を匕首で乱打した。
　真っ白な鞘が、巨漢の血で汚れていく。
　髪を振り乱し、絶叫を上げる幸の美しい顔は、恐怖に支配されていた。
　「立つな、立つんじゃねえ！　死んどけ！」
　「幸、もういい」
　ウルは声をかけ、後ろから幸の腕を捕らえた。
　幸はぴたりと動きを止めた。ウルの方を振り向きもせずに、肩で息をしながら、平べったくなって、痙攣している男を見下ろしている。
人を刺したりすると、緊張のせいで得物が手に貼りつき、とれなくなるという。　
ウルは白鞘を握り締めすぎて、白くなっている幸の指を、一本づつはがしていった。
「ここまで、やるつもりはなかったんだ……ただ、気付いてみたら」
　幸はガタガタ震えながら、言った。右頬に、うっすらと十センチほどの赤い線が走っていた。
傷だ。
今まで目立たなかったのが、頭に血が上ったせいで、浮き出てきたのか。
　　白鞘を預かったまま、ウルは頷き言葉少なに言った。
　「初陣なら、たいした戦果だな」
　幸は口許を押さえて、道路際に走った。
　しゃがみこんでえづく幸に、ウルは近づかなかった。下手な気遣いは、彼女のプライドを逆撫でするだけだ。
　「サイヤーラ」
　マスードの厳しい声に、ウルは並んで車のそばに立つ二人へ眼を向けた。
　いつの間にか、サイヤーラの手には拳銃が握られていた。
さっきの銃声の主は彼か。
　「幸は十分苦しんで生きてきた。まだ足りんというのか？」
　「あなたには関係ないでしょう、マスード」
　「少しは関係あるんだよ、サイヤーラ。実の母に売られ、タイの売春窟に放り込まれる寸前に、アラーの意志で、お前が助けることになった不幸な少女は、私にとって孫も同然なんだ」
　なおもはいつくばって、えずく幸の後姿を見つめるマスードの声は、怒りに満ちていた。
　ウルは聞いてない振りをした。上手に出来ていればいいが。
　「助けたんじゃない」
　口調を崩したサイヤーラが、不機嫌そうに顔を逸らすのが、視界の隅に入った。
　「三〇〇バーツで買ったんだ、あの忌々しい、やり手ババアからな」
　「まだ言うか、サイヤーラ」
　マスードは、鋭い声をサイヤーラに放った。
　「あの子を、売春婦のように言うのはやめろ。お前が、彼女を純潔のまま救い出すことが出来たのは、アラーのご加護があったればこそなんだ」
　「もういい。なら、施設に入るように、あんたから説得してくれ、マスード。あんたが引き取ってくれたら、なおいい……幸、いつまで吐いてやがる！」
　サイヤーラは、大声で怒鳴った．醒めた印象が一変して、強面の鬼教官のようだ。幸は、口許をきれいに畳まれたハンカチで押さえながら、涙目でふりむく。
　「何で刺さなかった？　挨拶してから、殴りかかってくれる、町道場のチャンバラじゃねえんだ、相手が殺しに来てんのが、わからなかったのかよ？　０点だ、甘ちゃん……車に乗れ」
　
　ウルは、サイヤーラが運転する、アメリカ製の四輪駆動車の後部座席で、ぼんやりと過ぎ去っていく、田舎路を見ていた。
　幸は、助手席の窓を全開にし、その上に顎をのせて放心していた。
　「近々テストする。その結果が０点なら、施設へ行け」
　エンジンをスタートさせながら、サイヤーラが出した通告に、ショックを受けているのか。
　こちらから見える、左頬が腫れている。
　匿名で１１９してもよいか、と恐る恐る尋ねた幸を、サイヤーラが無言で張り飛ばしたのだ。
　これにはウルも苦笑し、マスードも渋面を作った。
　ウルは切なくなった。幸は優しすぎる。こんなことには全く向いていない。
　結局もう一台の三人も、命に別条はなく、サイヤーラがぶつけた方の車から持ってきた、合成麻薬を車内にばらまくと、気絶しているのを尻目に、さっさとその場を離れた。
　マスードは、
　「今夜ハシムに、連絡してみるといい。わしの連絡先は、サイヤーラに聞いてくれ」
　そう言って、今日一日で、すっかり廃車に近付いた軽自動車を駆り、帰ってしまった。
　サイヤーラの説明によると、警察は事故よりも、自分たちの点数になる、麻薬の売人の検挙の方に重きをおくので、せいぜい事故現場に、目撃者を募る看板を置く程度だろう、ということだった。　事件を一つでも、なかったことにしようという警察の勤勉さは、どこの国でも一緒のようだ。
　今、ウルを乗せた車は、サイヤーラの、知り合いの外国人ばかりが集まる安宿に向かっている。
　できるだけ、足がつくような宿は避けるべきだというサイヤーラの助言に、ウルは全面的に賛成した。
　サイヤーラは、無表情で何事もなかったかのように運転している。
　やがて幸は透き通るような声でハミングを始めた。夕焼け小焼けだ。ウルでも知っている。
　家路に着くことから連想したのか。
　
　お手てつないでみなかえろ
　カラスと一緒にかえりましょ
　
　先ほどの、がさつな口調から、想像できない……逆を言えば、清楚で儚い外見にふさわしい、歌声だ。
　小さく歌い始めた、そのファルセットボイスに、ウルは黙って耳を傾けた。
　先ほどの立ち回りで、声が嗄れていないのは何故だろう？　それに、歌が上手すぎる。
　
　夕焼け小焼けの赤とんぼ
　負われてみたのは何時の日か
　
　十五で姉やは嫁に行き……
　「……お里の便りも絶え果てた」
　ハスキーな声でハモり出したウルを、幸は驚いて振り返ったが、歌うのはやめなかった。
　
　夕焼け小焼けの赤とんぼ
　
　狭い車内に、二人のハーモニーが優しく響く。
　
　止まっているよ、竿の先



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回はウルが京都大学を訪れ、話が急加速いたします。
どうか、お付き合いの程をよろしくお願いします。 ]]>
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		<dc:subject>-</dc:subject>
		
		<dc:date>2011-03-09T19:06:23+09:00</dc:date>
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		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
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		<title>　第四章　サイヤーラ</title>

		<description>　
　ウルが、関西国際空港の構内を出る…</description>
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			<![CDATA[ 　
　ウルが、関西国際空港の構内を出ると、すっかり日が暮れていた。
　吹き付けてくる潮風に、感動を覚える。一年近く、内陸部にいたせいだ。
　沖の方の漁火が、遠い星のように輝いていた。強風に、肩まで伸びつつある黒髪をなびかせながら、駐車場に向かう。
　しかし、寒い。
　灼熱のクルディスタンにいたことを差し引いても、日本の四月はこれほど寒くはなかったはずだ。
　ウルはこらえきれず、季節外れは承知の上で、トランクの中からロングコートを引っ張り出した。
　広大なパーキングは、多数の街灯に照らされ、闇が白い蛍で駆逐されている。ウルのいた村とは、かなりの違いだ。
　白い平凡な軽のバンの傍で、老人がニコニコと手招きしていた。
　スライドドアを開け、後部座席に乗り込んだが、車内特有の黴臭さがないことにほっとする。ウルはあまり乗り物に強くなかった。
　すぐに老人が、車を発車させた。
　車にはすでに、ドバイ空港で見た少女が乗り込んでおり、携帯をいじっていた。
　パチンとそれを閉じると、車内が静寂に包まれる。
　ウルは自分からは、話しかけなかった。
　ベージュのコートの下で、柞の棒を抱いている。油断するつもりはない。
　異変が起きたのは、空港と本州をつなぐバカ高い有料道路に、車が載ったときだった。
　「くっくっくっ……」
　少女が、肩を揺すって笑いだし、
　「あーっはっはっはっ」
こらえきれなくなったように爆笑した。
　手を叩き、ダッシュボードの上に、靴のままの細い足を放り出し、バタバタとかかとを叩きつける。
　運転席の、真後ろに座っていたウルは、呆然と斜め前の少女を見た。
　可憐な容姿、鈴のなるような声と大口を開けて馬鹿笑いする姿に、ウルは自分が今までだまされていたかのような感覚に陥った。
　「やったやった！　見事にやってのけたぜ、ざまあ見ろとっつあん！　なあ、マス爺さん、私きっちり仕事こなしたぜ」
　「これこれ、お客さんもいるんだぞ」
　老人は苦笑して嗜めたが、少女は全く聞く耳を持たなかった。
　「な？　言ったとおり日本に入るときは、私がブツを持ってたほうが怪しまれないっていったろ？　どうやって荷物検査をパスしたかっていうとだな……」
　そこで少女は、ごそごそと小さなバッグをまさぐり、
　「じゃん。これよ、これ。トランクを開けたら、このコたちがどーんと見えるようにしといたんだ」
　可愛らしい下着を、片手で掲げた。
　「いやっ、だめっ」
　突然、少女の声音が変わったのに、ぎょっとしたウルだが
　「だってよ、オイ。われながら致死量こえてんよ……をを鳥肌たってら」
　あっという間に、伝法な口調に戻る。
　ウルは、どっと疲れを感じた。
　「んでよ、金属探知機もった検査官のおっさんが、私の下着ガン見してやんの……あーいやだいやだ。ロリは犯罪です……まあ、でもパンツさまサマってやつだ、今日メンスのきてそうなおばさんも丸め込めたっしさ。」
　幸は上機嫌で、ぶんぶん下着を振り回しながら、フリクニ・フリクラの節で元気に歌い始めた。
　♪
　ゆきーのパンツは良いパンツぅ
　白いぞぉー萌えるぞぉー
　ロリーのコカンにスットライクぅー、
　欲しいかー高いぞぉー
　♪
　ウルは顔をしかめて、窓の外に目を逸らした。聞くに耐えない。
　「なーんだよ、姐さん、そんな顔すんなって」
　少女がケタケタと、邪気たっぷりに笑いながら、初めてウルに顔を向けた。黒目がちの魅力的な顔に、不敵な笑いを浮かべている。
　「自己紹介が遅れたね。私は幸って呼ばれてる。こっちはマスード爺さん」
　「ウルだ」
　短く答えた。
　そのそっけない物言いに、幸は絡み始めた。
　下着を、ダッシュボードに投げ捨てると、口を尖らせる。
　「おいおい。ハッピーにいこうよ、ウルさん。見事、密輸に成功したんだぜ？」
　「ミズ・ウル。勘弁してやってください。初めての大仕事で緊張が解けたんでしょう。普段はこの半分も、しゃべらん子なんですよ」
　「余計な事いうなよ、マス爺。それに私は、緊張なんかしてない」
　「近くの駅で、降ろしてもらえないだろうか。明日おちあえばいいだろう」
　ウルは、関わりあうことを、出来るだけ避けたかった。
　だが、幸は歌うように言った。
　「悪いけど、今日中に車屋とあってほしいんだ。明日の予定も詰まってるからさ。このまま京都まで向かう。二時間ほどでつくだろ」
　
　京都に入るなり、問題は生じた。
　九条の交差点で、信号待ちをしていたウルたちの乗った白いバンは、ニヤケ面の若者達――ざっと五人はいるだろうか――に囲まれ立ち往生していた。
　車高を低くして、下品に改造された４ＷＤが路肩に二台寄せられており、彼らがここらでだべっているところで、折悪しく信号が赤になったのだ。
　助手席で、深くうつむいている幸は、激しく後悔しているようだ。呪詛の言葉を呟いている。
　確かに、幸もウルも並外れて綺麗だが、ダッシュボードに下着が放ってあるのを見られてなければ、ここまでの事にはならなかっただろう。
　幸があわてて下着を隠したのも、彼らを焚きつける原因になった。
　「ネエネエ、お嬢ちゃん、その下着ちょーだいよ。中身でもイイヨ」
　茶髪でピアスをした、フライトジャケットの男が、助手席の窓を小突きながら大声で言った。
　「俺、こっちのガングロの彼女、タイプー。手ーつなぎてー。タイプー」
　泥酔したような眼をした肥満の男が、窓の外から爛々とした眼で覗き込むのを、がんぐろとはなんだろう？　と考えながらウルはシカトした。
　防寒着をきている男達を見て、寒いのは私だけではないのだな、と妙なところでほっとする。
　「チクショウ、人の初仕事に泥塗りやがって」
　 幸は俯いたまま、毒づいた。
　インド人の運転手つきかよ、おい、じゃあ後ろのコ、ハーフかあ？
　アーリア系と、アラブ系の区別も付かんのか？　ウルはイライラを押えた。
　マスードは、困ったように笑って、クラクションを鳴らしているが、男達は退く気配がない。
　「ムカつく。マス爺、轢くか？」
　幸が俯いたまま、ボソボソと呟く。
　「ナンバーが、クリーンなんだ。そうもいかんし、輸送の途中だ」
　マスードが、後ろから我関せずと追い越していく車に、眼をやりながら答えた。
　ハンドルを右に切って、隣車線から脱出を試みるが、進行方向に立っている細身で長身の男が、ガンガンボンネットを叩き始めた。
　コラ、インド人危ねえだろが、殺す気か。
　 「そうなのよ、ぶっ殺したくてたまらないの、短小包茎野郎。……マス爺やっちまおうよ。車は処分しちまえばいいじゃん」
　幸が、くいしばった歯の隙間から、本気にしか聞こえない台詞を洩らした。
　「短気を起こすな、幸」
　マスードは、苦笑を男達に向けたまま言った。
　このジジイ、アラブじゃねえの？ おーアルカイダ。
　 ウルは、怒りの溜め息をついた。
　アメリカでも日本でもそうだった。　我々中東系を見たら、必ずそれだ。
　知ってるか？　イスラム教ってパンティ被るんだぜ。
　ゲハハ、そりゃねえだろ。
　幸は芝居をするのも忘れて、愕然と顔をあげた。
　「……今コイツらパンティっつった？　……ねえよ、ありえねえ」
　ウルがポリスを呼べ、と口を開こうとしたときだった。男たちの誰かが、面を上げた幸を見て言った。
　お、やっぱかわいい顔してんなこのコ。もしもーし、このタリバンに拉致られたの？
　その台詞が終わった瞬間、マスードはギアをバックにいれ、車の側面にもたれかかっている男達がよろけるのにも拘らず猛スピードでバックした。
　 ウルと幸が慌てて体を支える。
　「つかまれ」
　マスードは言うと同時にギヤを入れ替えた。これで脱出だ。出来るなら最初からやれ。
　ウルは思ったが、次に起きたことは、ウルと幸の想定外だった。
　喚きながら、ズカズカ歩いて来た長身の男とその隣の金髪の小男に向かい車を直進させたのだ。
　上下がわからなくなるような衝撃と、短い悲鳴。
　そして、ブレーキパッドの、歯の浮くような甲高いシャウトが、耳をつんざいた。
　驚くまもなく、男たちは面白いように吹き飛び、二、三回転がって動かなくなる。
　ウルは急発進で、シートにぶつけた頭の痛みも忘れ、呆然とその光景を見つめた。
　幸も、あんぐりと口を開けている。
　まるでスチール写真のように、誰も動かない。
　
　「コスマク（ｍａｔｈｅｒ　ｃｕｎｔ)」
　
　アラビア語の中でも、最低の部類に入る悪態を、静寂の中でマスードが呟いた。
　てっめえ！
　肥満体の巨漢が、助手席の窓を拳で叩き、幸が悲鳴をあげた。
　二発目で、ガラスが砕けるかと思ったが、パワーウィンドーが、スルスルと下がり始めた。 男が殴るのをやめて、手を入れて来る。
　 「ちょ、爺、何考えて」
　幸の抗議は、男の悲鳴で遮られた。
　マスードが、今度は無表情に、パワーウィンドーを閉め始めたのだ。
　巨漢が、身も世もない悲鳴を上げるのを確認してから、マスードは車を急発進させた。
　布団にくるんだ、木の枝をへし折るような音がして、さらに絶叫が響きわたる。
　マスードは、窓を下げて男を開放すると、巨漢はゴロゴロと転がった。
　対抗車線の車が、スピードを落としてこっちを見ている。
　マスードは、二〇〇メートルほど離れたところで停車し、車から降りると、ガムテープでナンバーをかくした。
　マスードは、大騒ぎしている男達に手を振って、天に無かって繰り出したアッパーの、肘の内側を掌で叩いた。フランス式のファックユーだ。
「さて、逃げ出すか、追ってくるか……」
マスードは、運転席に戻ると携帯を開いた。
「おい爺さん…… 」
　幸は、青い顔で何かを言いかけたが、マスードの酷薄な表情に言葉を飲んだ。
　「サイヤーラ、私だ」
　ルームミラーで、二台の四駆がこちらに向かって走ってくるのを確認してから、マスードも車を出した。
「すまん、トラブルだ。九条でならず者の乗った、車二台に追われいてる……いや、関係ない、幸とお客にからんで来たところを、儂が轢いた……ああ、すまん。だがな」
　マスードは、一呼吸おいて言った。
　「あのゴミどもは、儂に向かってタリバンと吐かしおった。元北方司令官であるこの儂にだ。奴ら、言ってはいかん事を、言ってはいかん人間にいいおった……」
　マスードは、片手で器用にハンドルを切りながら続けた。
　「サイヤーラ、詫びは後でなんとでもする。依頼だ。九号線を西に走って、竹林におびき寄せる。奴等をアラーの身許に送ってくれ。どの車を使ってくれてもいい、死体の始末はこっちでやる。派手な葬式をあげてくれ……そうか、そうだな。わかった。それでいい。恩に着る」
　通話を終え、携帯を畳むと、誰にともなく呟いた。
　「幸の見ている前で殺しはできんわな……」
　




　作者より 
こんにちは。花粉は人類の敵です。杉の木なんかなくなってしまえばいいのに・・次回もお付き合いの程をよろしくお願いします。
 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>-</dc:subject>
		
		<dc:date>2011-03-08T11:58:07+09:00</dc:date>
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		<title>遥かなるサバーランドとクルディスタン2</title>

		<description>　
　ずんずんと早足で去って行こうとす…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　
　ずんずんと早足で去って行こうとする七海を、九城と十崎の悪魔超人コンビはさほどあわてず追いかけた。
　「俺まだ食ってる途中……なつみん、ごめんて」
　「九城は、食べててください。よければ僕の分も」
　十崎は、後からついてくる九城を振り返り、自分たちの座っていたテーブルをさしていった。
　じゃあ頼むで、九城の声を背中で聴きながら、十崎は、七海の後ろ姿を追いかけた。
　「いや、悪かったです。ちょっとやりすぎました」
　十崎は七海の隣に並ぶと、かなりふくれっ面のまま、早足で歩く横顔にさほど悪びれもせずに言った。
　「ついて来ないでください」
　とげとげしく言い捨てる七海に、
　「大丈夫ですよ。僕ら以外は誰も見てません……決定的瞬間を」
　「ついて来ないでください！」
　「まあまあ……これもあなたがやってきたクイズと同じ、ルール内での戦いじゃあないですか。まあ、確かに説明が足りなかったのと、隙をついたのは認めます」
　七海の経歴を、黒田から聞いたのか、或いはその逆なのか。
　気にはなったが、七海はむくれたまま歩き続ける。
　「昼ごはん抜きってわけにはいかないでしょう？　パンか何か奢りますよ。だからあんまり怒らないでください」
　七海の歩調が、心なしか落ちてくる。
　「織河さん、じゃないと僕は」
　十崎が、深刻な表情で続けた。
　「……アメンホテップ……三世」
　…………ぶふっ
　「……ああっ、ごめんなさい、間的につい。ちょっと、織河さん」
　十崎、そして自分自身に対する怒りという燃料を注がれたきれいなあんよが、さっきよりも速いスピードで前進を再開した。
　「……いや、悪ノリは僕の悪い癖です、怒ったままでも仕方ないとして、ちょっとこれを見てください。今朝言ってた景品です」
　今度は、横に並ぶ十崎から思い切り顔をそらしつつ歩く七海の目の前に、あるものを突き出した。
　いやおうなく、視界に入るものが何かに気づき……
　七海は我知らず、足を止めた。
　「それって」
　「きれいでしょう」
　それは円筒形の薄いブルーの物体だった。ハンコほどの大きさで側面に複雑な彫刻が施されていた。
　「円筒印章じゃあないですか……なんでこんなもの」
　「手にとってみてください。放しますよ」
　怒っていたのも忘れて、七海は、慌てて両手で受け取った。
　「きれい……私遺物を手に取ったの初めて」
　七海は、時間も場所も忘れて、ただ手のひらの上の、古代のハンコに魅入られた。
　「これ、大学の所蔵物ですか？」
　「いいえ。我々が手に取れるのは、実測のために置いてある、三角縁神獣鏡のレプリカぐらいでしょう。僕が個人的にイラクで、仕入れたものです」
　「イラク……冗談に聞こえないんですが」
　「それは本当です。旅行は好きなので、アジアをうろうろしていたんです。一年前の話ですが」
　これ以上七海を怒らせるのは、サークル脱退の危機と判断したのか、十崎の口調は優しいものだった。
　「まさか本物！？」
七海は素っ頓狂な声をあげた。
　十崎は楽しそうに笑った。
　「本物だったら闇ですごい値段がつきますよ
　「ためしにボケてみただけです。……きれい」
　十崎もその様子を楽しそうにみていたが、
　おもむろに言った。
　「差し上げますよ。約束の報酬って奴です。　あと、悪乗りしたお詫びと、ウェルカム・アワー・サークル」
　「いいんですか？　わーいやったー」
　我ながら、賄賂によわいなアなどと思いつつも、綺麗なアイテムをもらって単純に嬉しかったし、正直、十崎がここまで素直に謝るとは思わなかったので、機嫌を直さざるを得ない。
　「ええ……あなたにならいいでしょう。これ一個だけしかないんで、大事にしてくださいね。」
　「はい！肌身離さず持ってます」
　七海が、ぴょんぴょん跳ねながら喜ぶのを、十崎は目を細めてみていたが、振動する黒い携帯を取り出し、画面を確認すると言った。表情は変わらない。
　「すみません。急な用事が出来ました。お昼からはあなたの不戦勝です。九も帰るんじゃないですかね」
　「二人でお出かけですか？」
　「いえ、そうじゃありません」
　十崎は、謎めいた微笑を浮かべた。
　「初めての、共同作業ってやつでしょうか」
　「？」
　
　「さっすがにくいきれへんな……」
　もしゃもしゃと、口を動かしながら九城はひとりごちた。
　その時、携帯からエアロスミスの着メロが流れ出し、九城は顔色を変えた。
　周りを見回すと、まだチラホラと学生がいる。
　舌打ちして早足で食堂をでる。その間も携帯はやかましく歌い続ける。
　「……はいー。おー久しぶり、はうあーゆーほーるどおんぷリーズ」
　階段を駆け降り、人気のない食堂裏に回ると、がらりと口調を変えた。
　「ご無沙汰しております、サー」
　よどみのないきびきびした英語だ。　九城を知るものがみたらびっくりするだろう。
　「……からかわれているのかとおもったよ、ジェイソン」
　太平洋を隔てているとは思えないほどのクリアーな音質で懐かしい声が、自分の通り名を口にするのを聞き、九城はおもわず苦笑した。
　「失礼いたしました、校内だったもので……」
　「そう硬くなるな。もう一年近くなるか……そっちでも相変わらず暴れているのかい？」
　「勘弁してください。やっと、普通の生活ってやつに慣れつつあるところです、サー。大佐こそ、相変わらずリングでＫＯの山を築いておられるのでは？」
　「……いや、最近はコート（裁判所）でくそったれた、人権派弁護士どもとの、血を流さないボクシングがメインだよ」
　「想像がつきませんね。バグダッドの方が、お似合いですよ」
　二人は笑い合った。
　「イラクでは、一年近く本当にお世話になりました」
　「世話になったのは。こっちの方だ。今もまだ世話になっている」
　「とんでもありません。本社から指名をいただいたときは、大佐の名前を聞いて本当に驚きました」
　「今の会社はどうだ？　まあ、以前いた、デザート・ローズ社に比べればどこでもマシだろうが」
　現在籍を置いているＰＭＣ――民間軍事会社――ツイン・トリガー社で九城は、長期休暇扱いになっており、　傭兵稼業は休職中だ。一ヶ月、八〇万近く稼いでいたので二年くらいは働かなくても平気だ。
　「まったくです。悪くないですよ、後から撃たれる事もないし」
　その時、九城の脳裏に、思い出したくない光景がフラッシュバックした。
　吐き気と目眩がする。まだ軽口を叩ける段階には、至っていないようだ。
　「……だいぶいいいようだな。安心した。……どうした？」
　「いえ、なんでもありません。それで例の件ですか？」
　「そうだ、動き出した。エージェントから連絡があった。運び屋は若い女だ。特徴は……」
　九城は、電話の向こうの大佐が述べる、女の特徴を録音しながら暗記した。
　「で、運び屋がこっちに到着するのはいつですか？」
　「明日の、二〇一五時、新関西エアポートだ」
　「……！　急ですね。準備が間に合うかどうか」
　「他のＰＭＣの、手を借りるのかね？」
　「いえ。もしものときは、日本の警察に頼ります。こちらでの女の仲間は、何人ですか」
　「日本で人を雇ったらしいが、正確な人数は分からない、ただ、その中心人物はサイヤーラと呼ばれているらしい。今回は私個人の依頼だからカンパニー（ＣＩＡ）のバックアップはない。すまない」
　「いいえ。何とかなりますし、なんとかしますよ」
　そう答えながらも、九城の中で、得体の知れない不安が広まっていった。
情報は命なのだ。
加えてあまりにも、準備期間が無さ過ぎる。例え、相手が女ひとりであったとしても全く油断できない。テロリスト等は女性の方が残虐な場合が多い。その強がりを悟ったかのように大佐は続けた。
　「すまない、ジェイソン……今回は君個人への依頼という形になってしまった。君の会社を通じて依頼するのが筋なんだが、報酬の面で……」
　「次お会いしたときには、一番高い酒をおごってもらいますよ」
　九城はそれを遮る様に、ことさら明るい声で言った。
　大佐は、笑いながら言った。
　「そいつは、高くつくな……頼むぞジェイソン」
　「その呼び名はやめてください」
　九城も笑いながら答えた。
　メールで資料を送ると言って、大佐は通話を終えた。
　食堂にもどると、食べかけの食事はテーブルに置かれたままだった。人影はさっきより減っている。さっきの話で食欲は失せていたが、九城はいくらか残った物に手をつけ、トレイを返却コーナーに戻した。歩きながら携帯を開くと大佐から英文のメールと写真が送られてきていた。子供達と一緒にいるところを気づかれないように撮ったものらしい。件の運び屋の顔を拝んで九城は短く口笛を吹いた。
　「美人だな……」
　
　
　アラディンたちと別れて一〇分後、ウルは空港構内のカフェに腰掛け、豆を直接淹れるトルコ式コーヒーをすすっていた。
　甘ったるいチャイに慣れている舌には、久しぶりに飲むそれは、なんとも苦い。
　黒い水面を見ながら、ウルは今後の事を考えた。一年ぶりに日本へ戻る事になったのに郷愁は感じなかった。
　それほどいい思い出が、あるわけではない。
　むしろ今の村が、自分の居場所である気がするのだ。体に流れるクルド人の血が呼んでいるのだろうか。
　父は日本人だが、母はアラブとクルドのハーフで、祖母の時代に移住してきた中東系アメリカ人だ。ハワイで結婚式を挙げ、二ヶ月もしないうちにウルを出産。勿論計画的なものだ。そのため、ウルは日本とアメリカの二重国籍で、二一歳になる今年中にどちらかの国籍を選択しなければならない。
　幼少をアメリカで過ごしたが、911で有色人種への風当たりが強くなったため、高校を日本で過ごし、日本の看護専門学校にすすんだ。
　いったい、私は何人なのだろう？
　いつもの自問自答を繰り返す。
　そのこともあって、看護学校を卒業すると同時に、独りでイラクの親戚を訪ねた。難色を示す父、猛反対する母に就職前の最後のチャンスだから、クルド人がイラク国内でクルディスタンと呼称している北部は、日本並みに治安が良いからという説得で押し切った。
　母に反発したのはおそらくそれが初めてだったろう、湧き上がる小さな勝利感を抑え切れなかった。
　ウルはあの事件以来、示現流剣術を習い始め、性格がほぼ一八〇度変わった。
　拍子抜けするほど、近代的なクルディスタンで二週間が過ぎ、外へ出るのが億劫になり始めた頃だ。ボランティアをしている親戚のおばさんの勧めで、歩いて三〇分ほどの山岳地帯にある、アラブ人達が住む難民キャンプを訪れた。治安がよいため、イラク北部のクルディスタンと呼ばれる地域は、南部からの難民で溢れかえっている。クルディスタンには、アラブ人の子供達しかいない小学校もあるぐらいだ。
山岳地帯にある、うち捨てられた民家や倉庫に住み、ゴミの中から遊べるものを探している子供達の姿に、彼女はショックを受けた。
　自分にも何か出来ないか。
　そうしてなんとなく始めたのが、ボランティアで、就学前の幼児たちを含む子供達に、青空教室を開講することだった。
　開講当初から、時間を持て余していた子供達で、授業は盛況だった。胡散臭い目で見ていた、村の者たちも回を重ねるにつれ、同じ色の肌を持つ、彼女に気を許すようになった。
　妙齢で美しいウルは、たちまち男達の好奇の的になったが、彼女自身がクルド人の血を引くイスラム教徒で、親の決めた婚約者がいるというハッタリも加わり、妙な考えを、起こすものもいなくなった。
それでも一部の、真剣に求婚してくる男たちには辟易したが。
しかし、地雷だらけの――それでも治安はいいのだが――クルディスタンからなかなか帰国しないウルに母は激怒していた。
　しつこくイラクを出国するよう電話をかけてくる、一代で財を築き上げた強烈な個性を持つ女傑とは、結局ケンカ別れになったままだ。ウルが世話になっている親戚や、事情を聞いたハシムらは心配して、一度お母さんのところに戻るべきだとしきりに言われたが、頑として受け入れなかった。
ここが私の居場所なのだ．
　そうして一年が経った。
　カフェに入ってきたアラディンとアリが視界に入りウルは思考を中断した。
　二人ともウルと反対側の壁の席に座った。
　もちろん他人の振りだ。
　ややあって二人連れが入ってきた。
　片方はベレー帽を被り片足を引きづった中東系の老人、もう一人はチャドルを着て縁取りの濃い目だけを出した小柄な女性……子供かも知れない。
　アリはその姿を見つけ、大げさな身振りで立ち上がり――中東では普通だが――声をかけた老人はうれしそうな顔で近づき、抱擁しあい、鼻がくっつくような距離でお互いの親族の無事を確かめ合った。　女性は気遣わしげに、無言で老人に寄り添っており、アラディンも無言で立ち尽くしている。
　しばらく大声で久しぶりに会ったかのようなやり取りをした後、老人と握手をしてアリとアラディンは立ち去った。
　ウルに、ちらりとも視線を移さなかったアラディンは、やはりえらい子だ。
　二人は、やはりウルから離れた場所に座ると、ウェイターに飲み物を注文した。
　搭乗時間ぎりぎりまで、時間を潰した二人は店を出た。
　ウルもその後を、離れて追う。
　もしもの時のために、空港内の三人が見える位置に、アリらは待機しているはずだ。
　
　ドバイの空港で、初めてウルは老人の供をしている女性の素顔を見た。
　アルビルからの便が発着する、ターミナルⅡのトイレから出てきた時は、それが彼女だとまったくわからなかった。
　連れの老人の隣に、腰掛けるまで判らなかったのだ。
　正直驚いた。
　思ったとおりローティンの少女だったが、
　ジーンズにスニーカー、ポニーテールにした黒髪をインディアンズロゴの入った野球帽で押さえつけているというそっけないいでたちでも……
　はっとするような美貌は隠せなかった。
　黒目がちで透き通るような白い肌、桜の花びらのような唇、ほっそりとした体に長い足……雑誌のグラビアでも、なかなかお目にかかれないような典雅で線の細い美少女だ。ただ、左頬に張られた、大きな絆創膏がやたらと不似合いだった。
　これから日本への直行便に乗るので黒いチャドルを脱いだのだろうが、目立つのは変わらないだろう。
　願わくば、審査官が彼女に見とれてくれたら……美人というのも考えものだな、自分の容姿に無頓着な彼女は己のことを棚に上げてそんな感想を持つと、読みかけの雑誌に眼を戻した。
　
　
　保安検査官の石本豊は、この職業について五年になる。金属探知機を手にしたまま、ころころとキャリーバッグを引いて近づいてくる少女に、眼を奪われずにはいられなかった。
　五年……いや三年後には一体どんな美人になってんだ？
　ジーンズにラフなトレーナー。
　服って美人を引き立てることは出来ても、逆は無理かも、などとぼんやり考えていた。
　背筋の通った、それでいて嫌味な感じのしない歩き方。
　顔を赤くしてよっこらしょ、と検査台にトランクを載せる姿まで、何かの一シーンに見える。
「麻薬、その他違法なものはもってませんね？」
三〇半ばの、同僚の女性検査官が、トランクを開きながら語気鋭く声を掛ける。
　女性は女性が検査する、というのが原則だ。　惜しい。
　少女は、一瞬きょとんとしたが、あわてて何度もうなずいた。
　次の瞬間、
　「……きゃっ！　だめ！」
　あわてて、開いたトランクに飛びつく。
　一瞬周りが色めきたったが、はっとしたかのように、少女が真っ赤な顔で後ずさった。
　華奢な掌で、覆い切れなかった可愛らしい下着類が、トランクにつめられた荷物の表面に散らばっていた。
　「ごめんなさい……隠すの忘れてた」
　うつむいて、消え入りそうな声でつぶやく彼女に、険しい顔をしていた眼鏡の女性検査官は、噴出してしまった。
　「女同士でしょ、気にしないの」
　石本も、萌えずにはいられなかった。
　かわええ。
　薄いブルーやピンクの下着が眼に焼きついている。
　「はい。結構です」
　女性検査官が、まるで姉のような笑顔で言った。
　少女は赤い顔のまま
　「ありがとうごめんなさい」
　とつぶやくと、早足で行ってしまった。
　
　ウルは、パスポートコントロールで、旅券を入国審査官に差し出した。
　彼は一ページ目をめくり、ウルと顔写真を見比べる。
　審査官は、しばらくパスポートを触って確認していたが、スタンプを押すと言った。
　「日本へようこそ」
　その一言は、ウルの裡に複雑な感情をもたらした。





作者より
こんにちわ。きのう、何気に日曜洋画劇場の「0の焦点」をみてたのですが、中谷美紀怖かったですね。ホントに電車男のエルメスさんとおんなじひとなんでしょうか・・・ ]]>
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		<dc:subject>-</dc:subject>
		
		<dc:date>2011-03-07T07:59:40+09:00</dc:date>
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		<title>第三章　遥かなるサバーランドとクルディスタン</title>

		<description>　
　その一週間後。
　数千キロ離れた…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　
　その一週間後。
　数千キロ離れた、極東の地では大学の講義中で、七海は俯いて必死に笑いを堪えていた。
　「……でな、その番組でイタコにダイアナ妃の霊を呼び出させるってコーナーがあったんよ、なあ、十崎」
　右隣りにデンと座った九城が、七海の左隣に座っている相方に、小声で話を振った。
　「ええ、あれは秀逸でした。まじめ腐った婆さんが……」
　ここで突然声色を変え
　「アチュい、アちゅい、マフィアコワイアラブ人カネモチ」
　「めっちゃ日本語でさ。アラブ人関係ないし。息子らの名前聞かれたのにかたっぽしか答えられへん」
　七海は耐え切れず、額を机にくっつけて全身を震わせた。
　負けだ。笑ったら負けだ。
　唇を噛み、太股をつねって、全力で二人の悪意に反抗する。
　ここで講師に目をつけられたら、最悪、今日の出席票がもらえない。
　そもそも今朝、一緒に授業に出ていいか、とニヤニヤ笑う二人に尋ねられ、
　「おしゃべりできませんよ」
　と答えると、十崎が、
　「笑わせたらどうします？」
　と笑顔で聞いてきたのだ。
　「笑いません。集中してるから」
　「なら、今日一日ギブアップしなかったら、だれもが欲しがる考古アイテムを、進呈しましょう」
　「受けて立ちます」
　「トレヴィアン」
　十崎と九城は、手を打ち合わせた。
　受けて立たなければよかった。　学問に学生生活を捧げんとする七海に、当然二人は容赦しなかった。　次々と笑いの波状攻撃を仕掛けてくる。
　授業中に突然立ち上がり、
「由美ちゃん！」
「永井クン！」
　と言って、顔の高さを三段階に変えて見つめ合うのは――キックオフするのは反則だろう。
　ちなみに教室でそのあまりに古いマンガネタにツボられたのは、教壇で講義していた四〇前の講師と七海だけだった。
　本当なら降参したかったが、悔しいのでどうしてもギブアップが言えない。
　昼休みになる頃には、笑いすぎで、顔と腹筋が痛くなっていた。
　ついでに太股と、噛み締めていた唇も痛い。
　講師や教授に目を付けられて、頭も痛い。
　七海は盛大に溜め息をついた。
　しかも。
　「幸せが逃げますよ」
　向かいの座席に、トンカツとカップラーメン、コーラという、滅茶苦茶な取り合わせが載ったトレイを運んできた、十崎が座った。
　「誰のせいだと思ってるんです？」
　恨めしげに、七海はにらんだ。
　「まあまあ。物欲に眼がくらんだなつみんも悪いで」
　ニヤニヤ笑いながら、九城もトレイを持って、十崎の横に座った。
　「悪乗りしすぎです。教授や講師に目を付けられたじゃないですか」
　唇を尖らす七海に、九城はニヒルな笑いを浮かべて言った。
　「なつみんってば……怒った顔もイカしてるぜ？　……ヒャッハー！　これ言ってみたかったんよ、十！」
　「映画版バンパイアハンターＤですね、さすが九城です」
　「九城さん」
　真顔で七海は言った。
　「おう、なんや？」
　「自殺してください」
　「いいすぎやろ！？」
　「ちょうどそこのバルコニーが開いてます。二階程度じゃ難しいかもしれませんので放物線を描いて、ユーキャンフライ」
　「鯉のぼりの季節には、早いで！？」
　この数週間の間に、十崎だけでなく九城とも大分打ち解けることが出来た。
　九城という男は、見かけはおっかないし行動もおっかないが、陽気で竹を割ったような性格で、少なくとも七海には優しかった。
　テーブルに眼を落とすと九城のトレイには焼肉とカツ丼とプリン二個に紙パックのマミー。
　七海はコメカミを押さえた。十崎の取り合わせもひどいが、こちらも大概だ。
　「二人ともなんのバツゲームです、そのメニュー」
　「ん？　いつもどおりやで、なあ十」
　「いや、九城は少し変化がありますよ。プリンがいつもより一個すくない」
　照れたように九城が笑った。
　「わかる？　いや、そろそろ身体絞らにゃいかんと思ってや」
　突っ込む気持ちにもなれない。
　そのまま見つめあい、手を取り合う十崎と九城。
　「由良さん」
　「真さん」
　くッ、負けるものか。
　そんなすけべなマンガは全然知らない振りをし、七海は無表情に、買ってきたうどんを啜りはじめた。
　「で、九城」
コーラを飲みながら十崎がさりげなく言った。
　
　「青汁はやめたんですか？」
　
　「……！」
　七海はむせそうになった。
　やられた。
　この悪魔超人どもは……
　この悪魔超人どもは、七海が食べ始めるのを待構えていたのだ！
　十崎は、今日一日としか言ってない。
　そう、授業中だけ、なんて十崎は言わなかった
　七海が油断したのだ。
　うどんを口にいれたまま、飲み込む事も、吐き出すことも叶わない。
　……見える。
　嗚呼、顔を上げずとも見えるッ！
　六本腕で顔が三つあるヤツと、四角の塊で、下手したら金色のライターに変身しそうな悪者達が、カーカカカ、フォーフォフォと嗤う影が！
　七海は、進退窮まった。
　どんぶりに、口の中のものを戻すのも躊躇われるし、飲みこんでいる最中にヤられたら、眼も当てられない。
　万が一クリティカルヒットを喰らった日には、最悪鼻からうどんがでてくるという、今世紀最大級の、痛ましいことに……
　その姿を想像してしまい、笑いのゲージが、一気に危険領域まで上昇した。
　顔が真っ赤になり、うどんを口から垂らしたまま俯いて堪えた。
　効いてない、効いてない。
　七海は兄の口癖を暗誦する。
　「おー、悪ないんやけど、かき混ぜんのがめんどうでなあ。テレビで見てええわあ、おもてんけど」
　「織河さん、朝の青汁のドキュメント番組知ってますか？」
　十崎が穏やかに問うた。
　七海だけで無く、クイズにハマったことのある人間なら皆そうだが、知らない、と答えるのを極端に嫌う。止せばいいのにいつも十崎の振りを受けてしまうのもそのためだ。
　「ふぃってはふ」
　飲み込むチャンスを逃した。
　いや、無理だ。
　鼻からうどん。
　それだけは避けたい。
　「なら話は早い。あれがんばって働いてる一般の人が苦労の末にそこそこ成功して現在に至る、って形で紹介されてるじゃないですか。例えばこんなカンジで……
　ロシア系トルコ人のメフメット・サバスキーさんは苦節十年、やっとこの島根の地に、ガラタ橋、名物サバサンドを根付かせる事が出来ました。店の名は、彼の敬愛していたアメリカの、黒人アーティストに因んでサバーランド・島根」
　子供一人で遣いにやれんなあ。
　九城が背もたれに体を預けて呟くのを、七海は遠くで聞いた。
　メフメット・サバスキーさん。
　サバーランド島根。
　あかん。
　腹筋が痙攣し、視界が揺れる。弛みつつある口から麺が一本、二本と丼の海に帰って行く。
　噛み切れない。　噛み切ったらもう戻せないからだ。
　神様。
　「それでかならず過労や病気で倒れて、奇跡的に生還した彼は、健康に気を使い青汁を飲むようになった……がパターンじゃないですか」
　七海は肩で息をしながらカクカクと頷き、うどんを噛み切って腹を括った。
　飲み込む。一瞬のスキを突き飲みこむ。
　「あの番組で凄かったのはね……そんな彼を襲った突然の悲劇。身体を蝕むのは癌！　でコマーシャル」
　今だ！
　七海は意を決して口の中に残ったうどんを飲み込む。
　けれど七海は賭に負けた。
　九城が続ける。
　「んでコマーシャル明けのナレーションが、まさかの『幸い癌ではなかったが』……癌ゆーたやん」
　「んげぶっ」
　がはげへごほ、
　ごっほごほごほげべ
　にょろん。
　パーティーで鳴らすクラッカーのように、自分の顔面から、ひも状のものが咲くのを感じ、七海は奈落の底へ突き落とされた。
　七海は、顔を光の速さで俯かせながら箸を置き、まだとまらぬ咳ごと顔面を、取り出したハンカチで必死に覆う。
　……
　全てが終わり、涙目でおそるおそる顔を上げると、硬い表情の九城と、興味津々の笑顔で、ガン見している十崎がいた。
　「……いや、正直すまん。ここまでなるとは思わんかった」
　九城が引いたままの顔で言った。
　周りを眼だけで伺うと、幸い他の学生はこちらに注意を向けていなかった。
　十崎は微笑み、拳を握ると励ます様に言った。
　「えんがちょ」
　
　出立の朝が来た。
　あの会合以来、一週間が経っている。
　ウルは、青く澄み渡った空を見上げた。
　アラディンは思った。
　背を伸ばし、垂直に空を見上げるその姿は、いつか海賊版のＤＶＤで見た、吹雪に耐える南極の皇帝ペンギンのような荘厳さだった。
　ウルは狼だ。
　高貴と言う形容詞が、こんなにふさわしい女性を見たことがない。
　村のほとんどが、見送りにあつまった。
　石造りの家の屋根から、子供達が見下ろしている。
　大人達にかこまれていて、ウルに近付けないのだ。
　屋根に登ることが、出来ない子たちが泣いている。
　ウルは大人達を掻き分けて、ライラを抱き上げ、尚も泣きやまない彼女に二言三言呟いて頬擦りした。
　子供達が一斉に泣き出して、ウルのもとに駆け寄ろうとした。
　大人たちが道を空ける。
　ウルが、ライラを抱いたまましゃがみこみ、駆け寄ってきた子供を空いてる手で抱きしめる。
　あっという間に子供達の壁に囲まれたウルを見て、周りの大人たちは苦笑した。
　一人づつ抱きしめては、言葉を掛け、頭に頬ずりする。
　自分も駆け寄りたい衝動を、ぐっと我慢しながらアラディンは、自分の任務に思いを馳せた。
　車で二時間ほどのアルビルの空港で、円筒印章をサイヤーラの仲間に渡す。
　それは、自分と会計のアリの役割だ。
　仕事に関しては、なみなみならぬプライドを持っていると評判のサイヤーラだが、異教徒をどこまで信用してよいものか。
　そして……
　「アラディン、行くぞ」
　運転席のアリに、声をかけられて我に帰る。
　給油が終わったらしい。
　車の傍に放置されている、空になったポリタンクから、垂れる雫はピンク色だった。イランからの密輸品だ。最近は純度の高い、イラク製の黄色いガソリンは手に入りにくいらしい。
　これで世界第三位の、原油埋蔵量を誇る国だとは笑わせる。
　全てフセインと、アメリカのせいだ。
　ウルが立ち上がった。
　泣き声が一層大きくなる。
　ウルが追い立てられるように車に乗せられた。空港まで会計を司るアリとアラディンが一緒だ。　ハシムは村を留守に出来ない。
　「感謝する。君が無事に帰って来てくれないと、子供達が怒る。私もタダじゃ済まない」
　ハシムが笑って言った。
　「すぐに帰ります。私にはここで、大事な仕事があるのですから」
　ウルは涙に潤んだ眼を、後部座席から子供達に向けた。
　「すぐに戻る。みんないい子にしてるんだぞ。崖には近付くな」
　車が走り出した。
　「神の御加護を」
　ハシムとウルは、互いに言いあったた。
　追いかけてくる、子供達の声が徐々に遠ざかる。
やがて喚声は砂埃の向こうに消えた。
　 
　その光景を、石造りの粗末な家の窓から、見つめる影があった。
　やがて窓から離れると、使われていない暖炉の中に手を突っ込み煙突の裏側の壁に隠してある衛星電話を取り出した。
　「リオンよりベースへ。予定通り、鷲は飛び立った」
　
　道中、アラディンが話かけても、ウルは生返事を繰り返すだけだった。
心の中では、今別れた子供達の事ばかり考えていた。
　アラディンは聡い子供なので、それ以上話かけてこなかった。やがてアラディンは眠り込んでしまった。
　ウルは、そっと膝を貸してやる。
　あどけない寝顔を見た、ウルの口許が弛んだ。
　「アラディンは寝たか？」
　道中必要事項しか話さなかった、アリが口を開いた。
　「ええ」
　「ハシム師からの伝言だ。安全を第一に、兎に角無理はしないでくれ、とのことだ」
　「以前も聞きましたが、相手はどんな人物なのですか？」
　ウスマン老の話は、美化されているような気がして、参考にしていいものかどうか。
　「身長は、ハシム師より少し高い程度で痩せ型。村に現れたときは、アラブ人のなりをしていたよ。黒髪に黒目で、まばらな髭……ハザラ人（モンゴル系イスラム教徒）かと思った。年の頃は二〇代半ば……かな。若かったが、落ち着いていて、穏やかな目をしていた。それなりに上手なアラビア語を話していた。バグダッドでＮＧＯをしていたといっていたが、多分嘘だろう。軍人にも見えなかったがね。いったい何者なんだか……ただな、ひとつだけわかってるのは」
　次の言葉は、ウルの脳裏にこびりついて、離れることはなかった。
　「ウスマン老が言うような、上等な人間じゃない。官憲二人に、注射をしたときの事を話している時だけ、子供が夢を語る時のような、輝いた眼をしていた。殺しても胸が痛まない相手を探して歩いている……心のどこかの配線を間違えた、狂人だよ」
　

　アルビルの空港に着いたのは、昼前だった。
　アラディンは、車の停車する振動で目が覚めた。
　そして、その途端、後悔した。
　ウルのそばにいられる、最後の機会なのに。
　けれど。
　アラディンは、目を開けたとき、信じられないものをみた。
　柔らかいひざの上に、自分の頭を乗せたウルが見下ろして、慈母の様な微笑みを浮かべているのだ。
　ここまで優しい笑顔を浮かべる彼女を、アラディンは滅多に見たことがなかったし、自分にむけられたことはなかった。
　「アラディン、少しばかり留守にする。その間子供たちをたのむぞ」
　アラディンは、まだ夢の中にいるのだろうかといぶかりつつ頷いた。
　ウルは、アラディンの頭を、豊かな胸の間に抱えた。
　「あの晩サダムから、私を守ってくれてありがとう。汝の上に平安のあらんことを」





　作者より
　ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

夜中に、耳が痛いので救急に行ったら、医療事務の女性が綺麗だったので得をした気分の
りょうです。しかし、夜中の3時だったので、患者は僕と後2人だけでした。
なぜ間違いなくホストであろう彼らが小児科に座っていたのか、いまだに謎です。 ]]>
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		<dc:date>2011-03-05T09:27:36+09:00</dc:date>
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		<title>ウル　2</title>

		<description>血まみれで地面に丸まり、力無く呻くサダ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 血まみれで地面に丸まり、力無く呻くサダムの前でウルは荒い呼吸に豊かな胸を上下させた。
　凍るような空気に白い息が速いペースでウルの口から吐き出される
　状況にそぐわない、降るような星空とあいまって、学生の頃に、田んぼの畔道で変質者にのし掛かられた時の悪夢が、フラッシュバックする。
　一瞬パニックを起こしそうになったが、深呼吸し、顔の横で垂直に構えた一メートルほどの柞（ゆす）の棒を強く握り締めた。
　大丈夫。
　あの時は先輩が助けてくれたし、今は示現流剣術と、私自身が守護天使だ。
　神の定めた人が現われるまで、この身体は誰にも触れさせない。
　だが……
　アラディンと散歩しているところに突然現れ、俺の金入れが無くなった、犯人は余所者のお前しか考えられないと、酔っ払い特有の据わった眼で吼えるや、抱きついてきたのだ。今でもそのおぞましさに、震えが止まらない。大半は、怒りから来るものだが。
　「立て、イヌ！　女相手にもう終わりか？」
　中東では、最大級の侮辱を、コンボでぶつける。
　言い掛かりをつけられ、後ろから抱きすくめられた上に、胸をまさぐられた怒りは到底治まらない。
　「……殺す。雌イヌが……」
　浅く速い呼吸を繰り返す黒いベストの背中が、もぞもぞと身を起こしはじめた。
　血まみれの顔から、殺意に光る視線でウルを灼き殺そうとする。
　それに呼応して、ウルも黒曜石のような瞳に、あちら側の世界へ渡りきった狂気を漲らせた。
　ウルは心の中で、呪文を唱えた。
　正義は我にあり。
　間合いを詰めるウル。
　腰に手を伸すサダム。
　ウルの裂帛の気合いが、口をつきかけたその時、
　「ハシム師、こっち！」
　こちらに駆けつけてくる足音と、　ウルと歩いていたところを、サダムに追払われたアラディンの声がした。
　二人とも、動きをピタリと止める。
　程なく息を切らせたアラディンと、険しい顔つきのハシムが現われた。
　一触即発の雰囲気をかぎとったアラディンが、慌ててウルにしがみつき、サダムとの間に割って入った。
　ハシムもまたサダムの前に立ち、まだ腰から抜き切っていない、拳銃の射線を予め遮る。
　「説明してもらおう、サダム」
　サダムはハシムの平常と変わらぬ落ち着いた声に、狼狽を隠せなかった状況から立ち直ったようだ。
　「ハシム、俺の金入れが無くなったんだ！　だからこの異人に知らないか聞いたら、怒って殴り掛かって来やがった！」
　「ウソだ！　ウルに無理やり抱き付いてたじゃないか！　ハシム師、俺隠れて見てたんだ。それにウルが盗みなんかするもんか！」
　アラディンが叫んだ。
　ハシムがサダムに眼を据えたまま、その前から退いた。
　視界の開けたサダムはハシムに血まみれの顔を向け、しわがれた声で吼えた。
　「黙れ！　ガキが一丁前に色気づきやがって。異人の小娘の腰巾着は口を開くな！」
　アラディンはやせっぽっちで体力はないが、頭の回転は早い。
　わざとだろう、困惑した顔で言った。
　「血まみれでいわれてもなあ……心身ともにＫＯ？　イカしてるぜ、ベイ（旦那）」
　ウルが思わず失笑し、ハシムがうまいな、と呟いた。
　「……っ！」
　サダムが言葉に詰まるほど頭にきたのか、口から出損ねた怒りが、そのまま右腕に奔流となって流れたかのように、グリップに手をかけた。
　が。
　抜けない。
　「相手は丸腰だぞ。」
　いつの間にか近寄ってきたハシムが、その手を押さえていたのだ。
　サダムの手に、掌を被せているだけにしか見えないのに、びくともしない。
　細身で中背の、首領のどこにそんな力が隠されているのか。
　ティクリートで問題を起こし、二か月前にこの村に逃げこんできたというサダムには分からないようだった。
　「なら、素手で殺れば文句無いだろう！？」
サダムは怒鳴った。
ウルが棒を構えて前にでた。アラディンを背後にかばう。サダムが血まみれの顔をそちらに向け歯を剥いて威嚇する。
　「サダム」
　ハシムが、楽しそうに呼び掛けた。
　「今おまえの内ポケットから、失敬したんだが」
　ハシムがにこやかに掲げた物を見て、無頼漢は凍りついた。　ハシムはイタズラっぽく微笑んで、財布を左右に振った。
　口をぱくぱくと開閉するサダムを見て、ウルは怒りを感じるより先に、ハシムの手管にあきれていた。　まるでプロのスリだ。
　「いかんなあ。サダム」
　間延びした声でハシムが呟くと、アラディンがウルにしがみついた。
　訝しんでウルが見ると、アラディンはサダムと対峙したときにもみせなかった怯えをハッキリと表情に刻んでいた。
　「人を嵌めるなら、もう少し頭を使わないと」
サダムが一瞬ポカンとした。
　「返すぞ、ほら」
　ハシムがサダムの眼の高さまで、古びた皮財布をトスした。
　サダムが慌てて受け取ろうと、両手を伸した。
刹那。
　「がっ」
　苦悶の声を発し、サダムは前のめりにくずおれた。
　「しかも酒臭い。始末におえん」
　側頭部から地面に落ちたサダムを、足で転がし仰向けにさせる様子を、ウルは呆然と見つめた。左ボディからのワンツー。
　後ろから見た背中の動きで推測しただけだ。手の動きは見えなかった。
　「お前は本当にボンクラだ。普通そういう事をやるのなら、相手の荷物にプランティングしてからにするんだよ」
　ここでハシムは、チラリとウルの方を見た。
　数秒たってから、ウルは意図を理解した。
　「すぐに荷物をチェックします。以後私物の置き場には気をつけます」
　ハシムは満足そうに頷き、サダムに眼を戻した。
　さすがに虫の息だ。
　「とうわけで、その手は以後使えなくなった。そもそも金が欲しい人間が、こんな貧しい村に居着いたりするものか。」
　ウルはアラディンが怯えている理由を理解した。態度とは裏腹に、ハシムは激怒しているのだ。一度村の防衛のため、彼が銃を撃つところをみたことはあるが、この村に通いはじめて一年になる彼女でも、長が人を殴るのをみたことはなかった。
　「ティクリートで問題を起こして逃げて来たあげく、ろくに働かず、酒は飲む、威張り散らす、あろうことか子供たちの恩人に無礼を働く……血縁でなければアラーの身許に送ってやるところだが」
　淡々とした口調が、かえって恐ろしい。
　「手首の切断で勘弁してやる。左でいいな？」
　アラディンが、ひっ、と喉の奥で悲鳴をあげるのを聞いて、ウルは我に帰った。
　「ハシム師、もうそれだけすれば十分です。よしましょう」
　しかし腰から山刀を抜いたハシムは、振り向かずに言った。
　「ウル、申し訳ない。ここからは村の問題なのだよ」
　「お願いです、師よ。子供も見ています」
ハシムが無表情に振り返った。
　アラディンがウルの背中に半ば隠れ、蒼白になって震えているのを見て、ハシムは嘆息した。
「サダム。貴様はこの二人の慈悲によって救われたわけだ。それをゆめゆめ忘れるな」
ハシムがマチェットを、サダムの右足の甲に突き立てた。
　絶叫が夜の大気を震わせる。
　凍りつく、二人を尻目に、ハシムが淡々と言った。
「傷は浅い。治るまで、家に閉じ籠もっていろ」
　
　
　「サダム」
　ハシムの静かな呼び掛けに、ウルは我に帰った。
　「二人とも落ち着きなさい。サダムも口のききかたを改めろ。ウル、子供達の話は後でゆっくり聞かせてくれ」
　サダムは気まずげに眼を逸し、ウルはおとなしく頷いた。
　あの晩以来、ウルとサダムはお互い良好な状態を保っていた。つまり無視しあっているのだ。あの晩の事は散々な目に合わされたサダムはもちろん、ウルも、震えていたアラディンも口をつぐんでいる。
　「ウル。日本に行ってくれないか」
　師の唐突な頼み事に、ウルは言葉を失った。
　「どういうことでしょうか」
　返事が口から出るまでに、実に五秒を要した。
　「ある人間に会って、預けてあるものを引き取ってきてほしい。君はアジアの諸言語に堪能だ。我々は、英語すらまともに話せない」
　ウルは返事をしなかった。実際には英語と、日本語が母国語で、アラビア語は学習したので会話が出来るというだけだ。そのせいで思考が混乱することもしばしばで、あまりいいものではない。
　「相手は日本人なのですか？」
　「そうらしい。アウルディーという通り名しか名乗らなかったが、ここにくるまでは、カジワラと名乗っていたようだ。所在地を見つけるまでに一年かかった」
　ちょうどウルがこの村に来たころだ。
　「あまり友好的な関係ではないのですか？」
　物品を預けておいて、一年間、音信不通というのが理解できない。
　ハシムは苦笑した。
　「いや、彼の素性を、こちらが詮索しなかっただけだ。交渉のため日本人を雇ったが、完全には信用できん。そこで君に頼みたいんだ」
　「相手は、何者なんです？」
　ウルは、一番気になることを聞いた。
　「……バグダッドでタチの悪い官憲を二人懲らしめた、まあ英雄だ」
　「日本人がですか？　相手を殺したんですか？」
　「いや、それならさすがに指名手配されてるよ」
　「でしょうね」
　ウルはほっとしたように笑ったが、次のハシムの言葉で凍りついた。
　「相手に薬を盛って、眠らせている間に、路上で死に掛けている、ウィルス保菌者から採血した血を注射したんだ。死亡率一〇〇％のな」
　「…………」
　「そのまま北上して我々の村に数日滞在した後、更に北上してクルディスタンに滞在した後、帰国した様だ」
　「やり方が残忍すぎます」
　ウルは恐怖を覚えるよりも、腹が立った。
　「異国の娘よ」
　ずっと壁によりかかり眼を閉じていた、髭にうもれたような老人が口を開いた。
　「なるほど、残忍じゃ。だが、権力を笠に着て、町にあふれている貧しい子供達を男女問わず犯しては責め殺すようなシャイターンにはちょうど良いと思わんか」
　「……」
　ウルは今度は別の怒りに囚われたが、何も答えなかった。
　「その被害者の中の一人が、このウスマン老の孫でな。この村に形見を届けてくれた」ウスマン老が、小さいながらしっかりとした、装丁の本を取り出した。
　コーランだ。
　「その際、バクル――殺された子の名だ――のわずかな私物の入った鞄を渡された。その中に二つ、これが入っていた」
　ハシムが懐から大きな判子大の薄青い物体を取り出して、ウルに掲げて見せた。
　ウルは訝しげに眉をひそめていたが、その正体に気付いた。
　「それは、昔、博物館でみたことがあります」
　「そう、円筒印章と呼ばれる、古代メソポタミアの遺物だ。アウルディーが言うには、バクルが綺麗だからひとつを家族に、もうひとつをアウルディーにあげると言ったらしい。ウスマン老は喜んでそうした。その価値を知らなかったし、知っていてもそうしたろう」
　「盗品ですか」
　「多分な。盗品の盗品で、出所はバグダッド博物館だろう」
　アメリカによる侵攻の、どさくさにまぎれて略奪が行われた場所だ。
　「我々はこれの買い手を日本で見つけた。先程のサイヤーラと呼ばれる日本人に見つけてもらったんだ」
　ウルは、眼に怒りを閃かせた。
　「私に、運び屋をやれというんですか？」
　「もちろん、君は断るだろう」
　「無論です」
　「運び屋は、サイヤーラの仲間がやる。君はアウルディーを説得するだけだ。日本の好事家は一本なら十万、二本揃えば二五万ｕｓドル出すと言っているらしい。アウルディーには、七万五〇〇〇ドルで買い取らせてもらえるよう交渉してほしい」
　「お断りします。私には関係ありません」
　ウルはハシムに対して、失望を禁じ得なかった。
　ハシムは、答えはわかっていたというように、にっこりと微笑んだ。
　「君の言いたいことは分かる。盗品を売る上に、恩人から利ざやを取ろうというんだ。後ろ暗いことこの上ない」
　「そうですね」
　ウルに容赦はなかった。
　サダムが割って入った。
　「ハシム師、もういい。そもそも彼女は同胞ではないんだ」
　その言葉に、嫌味なものは混じっていなかった。むしろ諦めが感じられる。
　「そのとおり。師よ、ミスターサダムに任せたらどうです？」
　それでも何か疎外感を感じ、皮肉のひとつでもいわずにはおれないウルだった。サダムはちらりと不満げにウルを見たが何も言わない。
　「当初はその予定だったんだ。彼は英語が話せるからな。しかしその足では……」
　メガネを掛けた男が言いかけるのを、ハシムは苦笑しながら片手をかざし、遮った。　人のよさそうな笑顔からは、あの夜の酷薄さが想像できない。
　「まあ待て、ウル。最後まで話を聞いてくれないか。君も知っての通りこの村は貧しい。子供達に、最低限必要なものすら与えてやれない。南方からの避難民の吹き溜まりだから当然だがな」
　ここでハシムは真顔に戻った。
　「結局バクルも――彼の上にアラーの祝福があらんことを――その貧しさに嫌気が差して都会に出た。だが一三歳やそこらで仕事があるわけがない。結局は盗みか、体を売るくらいしかないのだ」
　ウルはかすかに眉を寄せ、唇をかんだ。
　ありふれた、そしてやりきれない話だ。
　「そこからは私に話をさせてくれ、ハシム」
　先ほどの、ウスマン老が口を挟んだ
　「きっとこれも、アラーの思し召しだったのじゃろう。そう思わねばやりきれん……じゃがな、もう二度と、この村、いやできればこの村に限らずバクルのような子供達を出して欲しくはないのだ。わしは難しいことはよくわからん。じゃが、ハシムは子供達に未来を与えたいと言った。わしにできることなら命をくれてやってもかまわん。あの仇を討ってくれたアラーの御使いも、あまりしゃべらん男じゃったが、同じ気持ちに違いない。異国の娘よ。あんたはやさしい娘じゃ。子供達に対する態度や眼をみていれば分かる。そして腕っぷしも強い」
　ウルはかすかに苦笑した。
　「しかし、同時に荒事は苦手じゃろう……いや、今言うことではないな」
　ウルの表情が強張った。　その通りだ。
　しかしこの荒れた地でそれを悟られたくない。だからこそ、自分でも尊大と思える態度と口調で突っ張って来たのだ。
　「二五万ドルあれば、多くの子供達を救えるだろう。だがもっとあればもっと救える。わしには金など必要ない。家族に先立たれ、早くアラーの御許に行くのを心待ちにしてるだけの年寄りじゃ。ハシムならうまくやってくれる。そう信じている。わしを含めて男共は、死ぬために遠路はるばる集まった、フェダイーン（戦士）だ。どうなろうとかまわん。娘よ。子供達を助けてやってくれんか」
　うそ偽りのない朴訥とした物言いに、ウルの心は動かされた。
　「ウル、私はこの村をもっと大規模な、難民村にしたい。学校を建て、医者を呼びたい」
　ウルは小さくため息をついた。　アルビルで外国人として住民登録を行っている為、ビザは問題ない。
　先日、慌てて脱いだ靴が重なっていたのをおもいだす。　クルドでは旅立ちの日が近いことの予兆だという。
　ライラや、アラディンの顔が眼に浮かぶ。見て見ぬ振りはできない。
　サダムの足の怪我に関して、自分に落ち度があるとは思わないが、　皆に対してはやはり負い目を感じる。だが犯罪の片棒を担ぐのは、彼女の中の潔癖さが許さない。
　「私はそのアウルディーという男に会って、取引を持ちかけるだけでいいんですね？それ以上はやりません」
　彼女の中で、妥協せざるを得ないラインだ。
「ああ。後はサイヤーラがやってくれる。交渉が不調に終わってもかまわない。目標の規模を小さくするだけだ。」
　ウルは覚悟を決めた。
　子供達のために、自分ができることの中では一番大きなことのような気がする。お金でしか買えないものもたくさんあるのだ。
　「わかりました」
　ハシムは真剣な表情を一層厳しくした。
　「助かる。チケットはこちらで手配する」
　「段取りはお任せします」
　ウルは立ち上がった。
　「ウル、アラーに誓おう。子供達の笑顔を、守ってみせる」
　ウルは背中をみせたまま頷いた。やはり気は重い。
　先ほど発言した男が、ウルに聞いた。経理をつかさどっている眼鏡の男で、アリという名だ。
　「何か必要なものはないか。金は諸経費とは別に、三〇〇〇ドルくらいなら準備できる」
　つまりは報酬か。
　ウルは入り口のところでかすかに振り返って言った。
　　「ノートと教科書と下着、八歳児にあうサンダル三足とボールを」




作者より

ここまで読んでくださいありがとうございます。
何分、サイト管理初心者なので、不手際がいっぱいありますが、
最後までお付き合い願えればうれしいです。
日曜以外は、ほぼ、毎日更新します。
どうぞよければ、っていうか、むしろお願いですから、コメントなどを
残していただければうれしいです。
よい一日を。 ]]>
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		<title>第二章　ウル</title>

		<description>第二章　ウル
　　
　イスラム教。
　…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 第二章　ウル
　　
　イスラム教。
　　八世紀に現在のサウジアラビアで、ムハンマドが興した、アラーを唯一の神とする、世界三大宗教の内のひとつ。
　偶像崇拝を禁じ、生活習慣の細部まで規範がある。
　
　
　イラク。
　一九四〇年代にアラビアのロレンスで有名な、英国に嵌められるまでは、メソポタミアと呼ばれた地域。
　二〇〇三年、アメリカは査察により、この国のミサイルその他の兵器を押さえ、丸裸にしてから侵攻した。アメリカの介入を歓迎したのは、政府の中枢を占める少数派のスンニー派に抑圧されていた、クルド人と、シーア派イスラム教徒達である。
アメリカは、早々と勝利宣言したものの、かつてのアフガニスタン・ソ連のように、戦況は果てしない泥沼に突入する。
　そして、アメリカ軍、イラク人共々、戦時中、他国から紛れ込んできたイスラム過激派による宗派、民族の区別なく行われるテロに悩まされることになる。
　古より、独立を悲願するクルド人は、世界最大の土地を持たない民族達である。イラク北部に隣接するトルコ、イランにまたがって生活しており、その元遊牧民が住まうイラク北部地域は、現在、クルディスタン自治区と呼ばれていた。
比較的治安が安定しているため、南部から流入したアラブ人たちの避難場所にもなっている。
　彼女はそこにいた。
　
　眼下に広がる峻峰を、彼女はいつものように眺めていた。
　峰を渡る風は冷たく、身にまとっている色褪せた、緋色の民族衣装と多くはない装飾品を奪い去ろうとするかのように、容赦なく吹き付ける。
イラク北部の山間にある、寒村にまだ春は訪れない。
　彼方まで見通すことが出来る白い乾いた景色の中、古代の城壁に囲まれた都市、アルビルが遠くに見下ろせた。
　空だけが高く青く、赤茶けた大地との境目で、芒洋としたコントラストをなしている。
　「ウルー」
　呼び掛けに、彼女は振り向いた。
　被りものからこぼれる黒髪を風が梳き、褐色の顔を覆う。
　それを細くしなやかな指が払いのけると、意志の強さを湛えた黒曜石のような瞳、次いで美しい顔がさらけ出された。
ただ、彼女を創造する際、天の何者かは、少しばかり悪戯心を発揮したようだ。整った鼻梁、薄く引き締まった口許、それらが織り成す調和は、アラブ系にも極東系にも見え、容貌から国籍を判断する事が困難だった。
だが美貌と言うには、まだどこか可憐さを残したそれは、どの国の基準で見ても美人だろう。どこか近寄り難い雰囲気を感じさせるのは、その容姿のせいというより、全身から発散される気品によるものだ。
　薄汚れた民族衣装を着た、アラブ人らしき少年は息を切らして立ち止まった。
　「サラーム、アラディン」
　女が低く、官能的とすらいえるハスキーボイスで言った。
　「サラーム。ハシム師がお呼びだよ……今日は何か見えた？」
　少年は山々に視線を向け、次いでウルと呼んだ女の、澄んだ瞳に眼をむけた。
　「いや。何もない」
　素っ気無く女は言ったが、少年はにっこり笑っただけだった。
　歓声に眼をむけると、少年が走って来た村の方からバラバラとこっちに向かって子供達が、一ダースほど駆けてくる。
　ウルの来訪が、伝わったのだ。
　それを見たウルは、一瞬表情を緩めたが、直ぐに口許を引き締めた。
　「そのあたりで止まれ。」
　大声で制止した。
　ウルの立っているあたりからは、足場が悪く危険なのだ。
　「危ないから、ここまで来ては駄目だと、何回言わせるんだ」
　子供達は素直に従い、ウルのかなりキツい物言いにもかかわらず、一様にニコニコしている。
　ウルが近寄ると皆、我先にしがみついて来た。
　「ウル、遊ぼうよ」
　口々に叫ぶ。
　「後でな。ハシム様に呼ばれているんだ」
　遊ぼ、遊ぼ。
　アラディンは笑い、
　ウルに眼くばせした。
　ウルが微かに顎を引く。
　「さあみんなモスクまで走るぞ。誰が一番早い？」
　ウルは叫ぶや駆け出した。
　皆も雪崩をうって走りだす。
　ウルは徐々にスピードを落とし、最後尾の泣きそうになって、よちよち皆の後を追う女の子を抱き上げた。
　「行くぞライラ」
　一瞬にして笑顔になったライラが、歓声を上げてウルにしがみつく。
　イラク人でないウルが、ここにとどまる理由。
　彼女が守るべき子供達。  
　
　ウルはアラディンと、モスクの入り口で別れた。
　モスクといえば、壮麗で巨大なものを想像しがちだが、実際はプレハブ建ての公民館程の規模や、マンションの一室であったりする。ウルが通う村のそれも、レンガ造りで小規模なものではあったが、周囲は綺麗に掃き清められ、信者が大切にしている施設であることは一目でわかる。
　ウルは鳥の囀りに送られながら、扉のない入口をくぐり、高校の教室二つ分程の広さの礼拝所を抜けた。　その奥の十二畳ほどのスペースに、壮年の男達が十人程座り込んで談笑していた。　部屋に漂うチャイの香に気が弛みそうになる。
　「サラーム」
　ウルが平安の挨拶をすると、あちこちからパラパラと挨拶が帰ってくる。
　「師よ、お呼びですか」
　上座に座っている細身で赤色のベストを羽織った五〇前らしきアラブ人に声をかけた。
　「よく来てくれた。座ってくれ」
　ハシム師は言った。
　低く、よく通る声だった。穏やかな笑みを浮べている。　他の男達も会話をやめてウルに眼を向けた。
　無遠慮な視線にももう慣れた。　最初の頃は、その眼の中に読み取れる、年頃の女性として耐えられない下卑たものに反発し、ことさら攻撃的になったものだが。
　一六五センチの長身にグラマラスなスタイル、大抵の男が振り返るであろう魅力的な顔立ちに大きな要因があるのだが、本人は全く気付いていなかった。
　十代の頃の苦い記憶とイスラム教徒としての規範が異性に対して堅固なバリヤーをまとわせていたせいだ。
　ウルが一礼して座ると、奥から黒いチャドルですっぽりと全身を覆った女がチャイを運んできた。　礼を言い、湯気をたてる透明の、硝子の器に口をつける。
　フルーティーな芳香が口腔内に広がり密かに眼を細めた。　ウルの好きなトルコ等で飲まれる林檎のチャイだ。
　「ウル。子供達に追い回されて大変だな。羊の世話でもしてるほうが楽だろう」
　ハシムが軽い口調で言った。
　「たしかに楽ではありませんね。でも楽しい事も多い。ライラは少し体重が増えたようです」
　「ほう、それはよかった。あの子は小さいからな。食べ物の好き嫌いが減ってくれればいいんだが」
　ハシムがうれしそうに言った。
　ウルが、彼を尊敬している点はここだ。
　村を治め、イスラム過激派やよそ者のアラブ人をよく思わない、一部のクルド人達から皆を保護しながらも、子供達の状況を把握している。
　「それから、アラディンがノートを欲しがっています。もう書くところがありません。英語の教科書も。それとヌールに新しい下着を。あと……」
　「おい、そんなことは後にしろ。子供のほしいものを聞くためにお前を呼んだわけじゃない」
　体格のよい粗野な容貌の男が、ウルの言葉を遮った。
　ウルが敵意を隠さず向けた視線を、ハシム師の親戚にあたるその男が濁った眼で受け止めた。
サダム。
以前暗がりで、ウルに抱き付いてきた男だ。
「貴様に気安く、お前呼ばわりされる筋合いなどない。何度も言わせるな」
　その時の事を思い出して、ウルの怒りが増幅しそうになる。
　「口の聞き方に気をつけろ！　異人の女！」
　サダムの方でもその際ウルに踵で急所を蹴られ、目を指で擦られ、彼女がいつも持歩いている棒で、気絶寸前までめった打ちにされた時の屈辱が、よみがえったのだろう。
　アラブ人は感情の起伏が激しく、面子を事の他重んじる。
　ウルが密殺されない理由は……
　
　
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		<dc:date>2011-03-03T07:58:59+09:00</dc:date>
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		<title>DNCへようこそ3</title>

		<description>　窓からの夕陽が、六畳程の談話室をオレ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　窓からの夕陽が、六畳程の談話室をオレンジ色に染めている。
　七海は、黒田とテーブルを挟んで、差し向かいに座っていた。
　頭の中は、混乱したままだ。
　「織河」
　碇提督のポーズを取ったまま、しばらく無言だった黒田が口を開いた。
　「はい」
　「お前高校生クイズで、準優勝したことあるだろ」
　七海は、意図しなかった角度からの、パンチによろめいた。
　「……なんでそれを」
　高校生クイズといえば、名門高校同士、三人一組で争う超ハイレベルの大会だ。
　七海は大会で、本戦まで残った、たった一人の女子だった。
　「おまえさ、考古学以外に趣味はないのか？　まだ一回生だろ。ちょっと肩の力を抜いたほうがいいぞ」
　七海はがっかりした。
　「なんでそんなに私を嫌うんですか？　動機が軽薄だったのは認めますけど……」
　「ムーって知ってるか？」
　歴史あるＢ級オカルト本の名を、出し抜けに聞かされ七海は、キョトンとなった。
　「あの学研のですか？」
　
　「あれの愛読者の成れの果てが、今おまえの目の前に、座っているいるわけだが」
　
　「……はい？」
　「どうしても、京大で考古学がやりたくてな。この大学に受かったのは、苔の一念てヤツだ。物覚えが良い方じゃなかったが、時間をかけてよければいくらでも頑張れた。そして時間だけはあった。友達がいなかったからな」
　自嘲気味に笑う黒田の横顔を、七海は信じられないものを見る眼で凝視した。
　「それで多くの説明は、要らないな？」
　「……後悔してるんですか？」
　七海はようやく、言語機能を回復した。
　黒田はアメリカ人のように、軽く肩をすくめる。
　「運のいいことに、嫌いじゃなかったみたいだ……もちろん俺がそうだったから他の奴らもそうだ、なんて決め付けるほど自惚れちゃいない。実際のところ、無理もないんだ。考古学をやりたいっていうやつは、みんな考古学を勘違いして門を叩くんだよ……俺や織河のようにな」
　黒田は恥ずかしそうに笑った。その笑顔には、何故か七海の味方をしてくれているらしい九城や十崎の影に、媚びている気配は微塵もない。ただ、ちょっぴり痛い過去に共感する者特有の、照れくささが見えるだけだった。
　「それはそれとして、十崎のサークルに入るのか？」
　「……わかりません」
　七海は迷っていた。
　最初は、部とサークルの掛け持ちなんか考えもしなかった。
　確かに高価な学術書が、ロハで貰えるのは魅力だ。
　サークルの活動内容も、いいかげんっぽいので、それほど勉強には響かないだろう。
　それに、サブカルチャーを含む、雑学の知識なら、自信がある。
　なにせ、クイズに高校生活の青春をつぎ込んでいたのだから。
　けれど。
　一番の揺れ動いている理由は、十崎の存在だ。
　今日のことは間違いなく、計画的な行動だ。
　十崎は七海を救う手立てを、考えていてくれたのだ。
　サークルに入れば、誰にもいじめられないのでは、という打算がないとはいえないが、　純粋に、十崎に対して恩義を感じているのも本当だし、そちらの方が間違いなく大きい。
　「あれって実際何のサークルなんですか？」
　七海は、黒田にも聞いてみることにした。
　「十崎の説明したとおりだ。まあ、ほかにも思いつきで色々やってるみたいだな。メンバーは一五人もいないと思うけど」
　「なんで考古学研究室でやってるんですか？　定員もいっぱいで余分なスペースなんてないんですよね？」
　そもそも、考古学部の活動は、一昨年まで週二回くらいで、写真部の部室を共同で使っていたらしい。研究室は院生や助手、ゼミ生だけでスペース的にもいっぱいいっぱいだったのだ。
　「九城は聴講生でな。学生じゃないんだけど教授も含めて妙なコネがあるんだ」
　「……十崎さんと九城さんて何者なんですか？」
　「本人達に訊け」
黒田は立ち上がった。
　「十崎のサークルに入ろうと入るまいと、ゼミの根回しは俺が手伝う」
　「え……」
　七海は驚きのあまり言葉を失った。今日はそんなことばかりだ。
　「やな思いさせたしな。理由はなかったわけじゃないけど、やりすぎた。いじめられるつらさは知ってるのにな」
　呟き、立ち上がり入口に向かう黒田を呆然と見送った。
　「それから俺の実家、三重の田舎でな」
　黒田はドアノブを回しながら、無表情にいった。
　「ガキの頃近くの滝に落ちた。しかも三回。　滝の裏に宇宙人の秘密基地があると思ってな。」
　七海が腹を抱えて笑い出したのは、ドアを閉じる音がしてしばらくたってからだった。
　「あはははははは！」
　顔を逸らし、体を折り曲げ笑う笑う。
　黒田に悪いとは思わなかった。彼がそう望んだのが分かったからだ。
　「あはははははは……はっはっ……はぐっ、ひっ、ひぐっ、ひっ、ひっ」
　七海の頬を涙が濡らし始めた。夕日が七海の未来を照らすかのように、その雫を茜色に染める。
　何年ぶりか……何年ぶりかに私に両手を広げてくれた人たち。
　居場所。
　私が一番欲しかった私の居場所。
　残照が談話室を、別世界のように暖かい色で満たした。
　拭っても拭っても涙は止まらなかった。
　
　七海が研究室の扉を開けたのは、すっかり日が暮れてからだった。室内にはノートパソコンのキーボードをを叩いている十崎がいるだけ。
　十崎が七海をみた。
　「いい顔になりましたね」
　「おかげさまで」
　泣き腫らした眼のままで、七海は自分に両手を広げてくれたもう一人の人物に微笑んだ。
　七海は以前うけとったまま返し損ねた入会用紙を突出した。
　「これ、お返しします」
　それを受け取った十崎は、用紙に眼を落とした。
　七海に目を戻し、十崎は魅惑的な笑顔を向けた。
　「九城に連絡しときます」
　なぜだろう。
　その向こうに砂漠の広がり、鼻孔を刺激する青く清冽な大気、突き刺さる灼熱の日差しが、七海には見えた様な気がした。
　この人の笑顔には、私の心を掻き立てる、何かがあるんだ。
　七海は体の中で鳴り響く、フルオーケストラのファンファーレに、背筋をぞくぞくさせながら思った。
　兄が言っていた。
　『ダンサーは、自分が選んだ曲で踊るもんやで』
　これから、何が始まるのだろう。
　自分が選んだステージ、全く趣味じゃない音楽は、かからないはず。
　ダンスホールに鳴り響くのが、どんな調べであろうと……私は壁の花になるつもりはない。
　ちっちゃい頃から、自分の足を踏みそうなドンくさいリズムでここまで来たけど……　
おしゃれじゃない靴でも、素敵なステップは踏めるのだ。
ましてや。
　未だ自分を見つめている、十崎の微笑みに胸をときめかせながら、七海は笑った。
　一緒に踊ってくれる人たちは、なかなかに素敵そうだもの。
　今宵の一番手が、七海に手を差し伸べて言った。
　「ようこそＤＮＣへ」


作者より

いらっしゃいませ。
まだまだ続きます！ ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>-</dc:subject>
		
		<dc:date>2011-02-02T20:29:11+09:00</dc:date>
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	<item rdf:about="https://ryou0910.novel.wox.cc/entry3.html">
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		<title>ＤＮＣへようこそ2</title>

		<description>　「ん……」
　九城は、人が目覚める時に…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 　「ん……」
　九城は、人が目覚める時に感じる、方向感覚の喪失を味わいながら、眼を開いた。
　トタン屋根が視界に入り、ついで硬いベンチの感触を背中に感じる。
　身を起こし、ぼんやりしながら辺りを見回すと、一ダース近くのスポーツウェアや、ジャージを着た男女が、陽光の下でテニスに興じていた。そこでやっと自分が、どこにいるのかを思い出した。ここは、京都大学構内の、テニスコートだ。
　そういや京大って、スポーツで名を売ってる競技ってあったっけ。携帯で時間を確認しながら唐突に浮かんできた疑問を適当にスルーする。午後四時前。
　食堂で昼食を済ませたら本格的に眠くなって来たので、無人だったテニスコートのベンチで昼寝をしてたのだ。慢性の寝不足が大分解消された。
　九城が今座っているのは、バス停などに設置されている青いプラスチック製のベンチだ。　二つ並べられているので一七五センチ近くある自分が、二人寝そべっても十分スペースがある。
　なのに。
　九城は眠い眼をしばたたかせながら、ボールが飛び出さないよう、三方を高く囲んでいるフェンス際を見た。　今部活だかサークル活動だかをしている連中のバッグや水筒が固めて置かれている。　そして粗末なトタンで囲まれた、ベンチを含む九城の周囲には、荷物も人の影もなかった。
　なにか腑に落ちないものを感じながら、大きくゆっくりと伸びをし、首を回す。ゴキゴキと凄い音がした。　結構はなれていても、その音が聞こえたらしく、何人かが九城の方を見たが、眼が会うと慌ててそらし、何事もなかったかのようにプレイを続ける。きゃいきゃいと騒がしいが、無理にテンションをあげているのが丸わかりだった。
　「あちい……な」
　九城はひとりごちて前開きのジッパーを開いた。
　羽織っていた派手な柄のパーカーを脱ぎ、Ｔシャツ姿になると、逞しい筋繊維のうねる鋼の様な体躯があらわになった。
　鋭角的な顔立ちと三白眼、長めの直毛に無精ひげ。野生的な魅力溢れる外見。
　しかし残念ながら、そのどれもが陽光溢れるテニスコートに不似合いで、悲しいくらい用がなかった。
　資格の欄に英検三級と書き込んだ履歴書を持ち、運送会社のバイト面接に意気揚々と臨んだ、痛い過去を思い出し、少し凹む。　『用がない』で連想してしまったのだ。
　九城は、目の前の光景を見ながら、何か説明し難い、わずかな苛立ちを感じていた。
　保護観察処分で済んだのが、不思議なくらいのおバカを中学・高校と重ね続け、留学先のアメリカでも、犯罪スレスレの商売に手を染めた。
　果ては民間軍事会社の一員として、イラクで銃声と簡易爆弾により、耳と心がバカになる思いをするという、極めつけの愚行に走った自分。
　そんな己がなんとなく、軽蔑と引け目を同時に感じる……そう『爽やかさ』
　そう思い至ると同時に、九城は立ち上がった。
　「ちょー、自分」
　ずかずかと歩きながら、手近の男に大阪弁丸出しで声を掛ける。
　「え、ぼくですか？」
　テニスウェアでばっちり決めたその爽やかそうな男は、どうやら、この集団の頭らしかった。振り向いた満面の笑顔がたまらなく不自然で、九城のイラ度のゲージを上げるのに一役買った。
　「そー、自分や。ええラケット持っとんな。おれもテニスやってみたいんやん、教えてーや」
　「ええ、ぼくで良かったら……いやー、凄い体してますねえ。テニスの経験は？」
　「んー、中坊の頃、ラケットの硬いとこで、ヤンキーの頭シバいたときくらやな」
　男の満面の笑顔が、一瞬硬化したが、
　「いやーそうですか、じゃあ、大分ブランクがありますねえ。壁打ちからやってみましょうか？」
　微妙なスルーをしてから、九城を壁際に誘った。
　男は一度荷物のところにダッシュすると、九城に貸すためのラケットを手に取って戻ってきた。
　九城は少し古びたそれに、眉を顰める。
　「そのラケット、かっこええな。俺みたいな初心者でも、ホームラン打てそうやん？」
　男が大事そうに抱えている方のラケットを、ガン見して遠まわしどころかほぼ最短距離で無心する。
　「いやー、ホームランはダメでしょう。じゃ、まず利き手でにぎってみてください」
　欲しくないほうのラケットを手渡され、九城は人の奥ゆかしさを全く理解しない男に、音高く舌打ちした。それでも仕方なく我慢して、男の退屈なレクチャーに付き合ってやる。
　この時点で、九城は自分からテニスをやりたいといったのを、すっかり失念していた。
　三分経つと、めんどくさくなってきた。　だが、壁打ちは結構面白かった。　何度か失敗するうちに、跳ね返ってきたボールをうまくラケットで捉え、ラリー出来るようになる。
　「上手ですねえ。ホントに初めてですか？」
　男は本気で驚いているようだった。
　「ん……まあな」
　「運動神経いいんですねえ。すぐにプロになれるかも。じゃ、続けといてください、ちょっとサークルにもどりますんで」
　男は爽やかに手を振ると、仲間の所へ駆け戻っていった。
　九城は無表情にそれを見送ると、ノロノロと壁打ちに戻った。ひょいとボールを頭上に放る。
　ぱこーん。
　壁から跳ね返ってくる打球を追いながら、今抱えている、さっきとは別の苛立ちの原因を考える。
　ぱこーん。
　よーし、ユカりんめー　今日は本気で打ち込んじゃおーかなー
　男のさっきとは打って変わった、威勢のいい声と女の子の甲高い嬌声を背中で聞く。
　ぱこーん。
　九城の脳裏に、うまく言葉に出来なかったもやもやした気持ちが、明確な形をとりかける。
　よー、今日も飲み会行くっていう、サムライ誰と、誰よ？
　男のテンションの高い、叫び声を聞いた九城は、ラケットを握りなおした。
　ひょーい。
　「すりゃっ！」
　ばこっ！！
　「……次お持ち帰りしようとすぐっ！！」
　九城の渾身の、オーバーハンドによるサーブが、見事に男の後頭部に命中。
　「サー！」
　どんな温和な相手でも、ウザくて血圧が上がるであろう掛け声をあげる。
　命も危ぶまれるような、倒れ方をする男に向かい、九城は吼えた。
　「テキトーに相手して、穏便にお引取り願おうとか思とんちゃうぞ、くらぁっ！？」
　核心を突く、ならず者の言葉に、気絶した男を除く全員が凍りついた。
　「ぬわああああにがテニスじゃああ、お上品ぶりやがってえええええ！」
　うがー、と両手を振り上げた、九城にほぼ全員が悲鳴をあげて逃げ腰になる。
　「をい！　そこのねーちゃん」
　鷹がドラッグをキメたら、こんな目になるかもしれない、と言う様な九城の眼光に射られ、手近にいたおとなしそうな女の子が、すくみあがった。
　「見たれや、こいつを！」
　ついで、両手の指で作った輪で強調し、突き出された九城のバギーパンツの股間に視線が釘付けになる。
　「テとぺ、一文字違いや、かかってこんかい！　いえ、むしろかかって来てください！」
　「きゃあああああああ！！」
　女の子はやっと絶叫をあげると、呪縛から解き放たれたかのように、必死で逃げ出した。
　それをガニマタのまま追う九城。途中気絶している男の背中を踏んづけ、戦利品のラケットをゲット。
　そいつの握りを、バギーパンツの裾から自分の股間に突き刺した。
　「ババアアアアアン！」
　痛みを堪えるかのような表情で、劇画チックに効果音を叫ぶ。
　四月のテニスコートは、阿鼻叫喚の地獄と化した。
　雲ひとつない空の下、足の速いゾンビに追いかけられる様な恐怖を若人達は忘れないだろう。
　「猿くん！　今日はこいつで勝負だ……そこの見せパンはいてる嬢ちゃん、そうや、ワイはサルや！」
　蜘蛛の子を、散らすかのように逃げ惑う群集に、エリマキトカゲのごとく驀進しながら、九城は絶叫した。
　「ホールインワンやでえ！！」
　
　まだ気絶している男の尻に、ラケットを刺して返却すると、九城は誰もいなくなったテニスコートを後にした。
　「あー、すっきりした……ん？」
　震えてる携帯に気付き、耳に当てる。
　「おー十崎。ん？　テニスコートでたとこ……今日は出てきといてくれ言うたんおまえやろ……え、マジか？　かわいいん、その新入生？　紹介してーや、おーおー今からいくわ」
　
　七海は三日目には、胃に痛みを覚えた。
　のんびり屋の自分には、無縁だったのに。
　 研究室にいかない理由をあれこれと探したが、一度行かなくなると、そのまま足が遠のくのはわかっているので、我慢して通いつづけた。扉が重い。　今日は選択している授業の関係で、研究室を訪れたのが夕方になった。
　いつもより多くの研究生や学生がいた。
桃井の姿を見掛け、少し気分が軽くなった七海は　席に付きチラリと黒田の方を見る。黒田は入り口の扉のほうに向かって移動しながら男子学生と談笑していた。
　どうか今日はヤなこと言われませんように。
　期待は簡単に裏切られた。
　「おい、邪馬台国」
　七海は聞こえない振りをした。
　「おーい。聞いてんのか」
　「織河です」
　七海はそちらに目を向けずに言った
　「悪かったな、邪馬台国。お前出身どこ？」
　「……能勢です」
　「すげえ田舎だな。滝にハマった事あるだろう？」
　黒田と話していた男子学生が、おいおいと言って笑った。
　七海は音を立てて立ち上がった。
　周りが徐々に静かになった。
　俯いたままの視界が狭窄していく。
　あれ？
　怒りで真っ赤になった頭の中が、突如ブラックアウト。
　七海はゆっくりと、黒田の方に目を向けた。
　薄笑いを浮かべた黒田の目に、動揺が走る。
　そのとき。
七海は頭をぽんぽんと軽く叩かれた。
　
　「鳩がでますよ」
　
　気配を感じさせず横に立った十崎が、七海の頭に手を載せたまま言った。
　我に返った七海が、びっくりして眼を向ける。
　あれ？　私……
　いつの間にか、髪の毛を括ってるぽっちに伸びていた、自分の手に驚く。
　何しようとしてたんだろう？
　見上げると、携帯を耳に当てた十崎が、初めて見る生気に満ちた瞳で、七海に笑いかけていた。
　 ショータイムのはじまりです。
　その笑顔は七海にそう語りかけていた。
　十崎は眼を閉じ電話に集中しながら呟いた。
　「三、　二、 一……」
　その時入口の鉄扉が勢いよく開き、黒田と話していた男子学生を、紙くずのように吹っ飛ばした。
　笑みを深くし、十崎は言った。
　「ショーダウン」
　「うーっす」
　野太い声が響き渡り、七海はわが目を疑った。
　長目の髪をセンターで分けた直毛におどろおどろしいプリントのパーカー、派手な柄のバギーパンツ。
　鋭角的な顔立ちにはめ込まれた三白眼と、躍動感溢れる身のこなし。
　そういう人種に縁のない七海でも、およそこの国立大学には似つかわしくない人物だという事ぐらいはわかる。
　「……ん？　ドアの前に立つなよ。危ねえぞ」
　男はずかずかと入ってくるなり、倒れている学生に向かって言った。
　携帯を畳みながら、
　「退きタマエ！」
　あわてて横に逃れようとした、黒田の背中を思い切りはたく。
　シャツの上からと思えないような音がし、黒田があまりの痛みに、声も出せずにのけぞった。
　男は、十崎の方にデコトラよろしく驀進しながら七海を見て笑う。
　「おー、この娘か。めっちゃめんこいやん」
　その邪気のない笑顔に、状況も忘れて七海は心臓を跳ね上がらせた。
　「三年後が楽しみやな。で、十。面白いものみせたるって何？」
　なんだとぅ！？
　七海は歯を剥きだした――
　心の中で。
だって怖いんだもん、この人。
　十崎はノートパソコンを、指差して言った。
　「黒田先輩が、我らのルーキーを性的・精神的に虐待した全会話がここに」
　「ふーん……」
　男が興味なさそうに、覗き込んだ。
　セクハラはさすがにない、と誰も突っ込めず、妙な静けさが訪れた。固唾を飲んで全員が注視する中。
　「新歓コンパでの会話ログて……お前行ったん？」
　いぶかしむ男に、
　「まさか。そんな退屈なものに参加するくらいならネットゲームでＰＫやってる方が百ましですよ。単にスパイを紛れ込ませておいただけです」
　十崎は朗らかにとんでもないことを言った。
　「だあな…………あん？」
　パソコンに眼を走らす男の剣呑な呟きに、場の空気が凍りついた。
　「十崎。この九城をいつか埋めてやるって下りはマジデスカ？」
　皆がぎょっとする気配がした。
　確か九城ではなく、十崎だったはず。
　「ほんとうですとも。嘘吐いたことなんかないですよ、ぼく」
　その場にいた大半が叫んだ。
　「「「嘘だッ！！」」」
　「黒田くぅん！！」
　男は大股に近付くなり大きく万歳し、黒田の両肩に全力で振り下ろした。
　すごい音がして黒田が悲鳴をあげる。
　「モニカイパーイココロ怪我シタヨ！」
　男は黒田の胴に両腕を回し、持ち上げると全力で締め付けた。
　「ぐふっ！」
　黒田は喉の奥から、絞り上げるような声を洩らす。
　なぜか男は、照れたように叫んだ。
　「こ、これは唯のベアハッグなんだから、ギュっとかじゃないんだから、勘ちが以下略！」
　「ああー、懐かしい技ですねェ」
　十崎がコロコロと笑った。
　男は床に黒田を優しく浴びせ倒すと、今度は立ったまま片足を絞り上げた。
　スタンドのアキレス腱固めに、黒田は純粋な悲鳴をあげ、何度も床を叩いた。
　周りから引きつった笑い声がちらほらあがるのを聞いて、七海は我に帰った。
　自分は笑う側には周りたくない。
　二人に駆け寄る。
　「ち、ちょっと。やめましょうよ」
　男にじろりとねめつけられ、七海はちょっぴり後悔した。
　「い、いくらなんでもそれは」
　びくびくしながらも抗議する。
　「なんで？　ただ懐かしのＵＷＦごっこをしてるだけやで？　単なる冗談ってヤツだよ……」
　そこでじろりと周りを見回し、言った。
　「こいつら風に言うとな」
　七海は言葉を失った。
　この人は、この研究室の空気を理解しているのだ。
　「黒田も楽しそうやろ」
　「明らかに嫌がってますよ！」
　「……自分、日曜の子供アニメに出てくる、黄色い子に似とるな」
　「話を逸らさないでください！」
　考えろ。考えろ。
　七海は棚にあった、黄色い糸を掴んだ。
　発掘の際に使う水糸だ。
　しゃがみこんで、相変わらずもがいている黒田の手に握らせる。
　七海は男を見上げて言った。
　「ロープです。ブレイク」
　「プロレスルールちゃうで。Ｕやっていったろう」
　「ロープエスケープ三回で失格がＵルールです。解いて下さい。ちなみに内ヒー（ル・ホールド）外ヒー（ル・ホールド）ともに禁止です」
　男がぎょっとした顔をした。
　「レフェリー手伝ったらあかんやん。」
　なおも抵抗する男に、
　「レフェリーも道具の一部。レフェリーを踏み台にした飛び膝、シャイニングウィザードを否定するつもりですか？」
　強引に話を逸す。男は黒田の足を放り出すと、うれしそうに言った。
　「十崎。この娘めっちゃおもろいやん」
　「いやあ、私もこれ程とは思いませんでした」
　腕を組み、眼を細めて、満足そうに十崎が言った。
　とりあえず助かった。
　顔をしかめて起き上がる黒田をぼんやりと見ながら、七海はへたりこみそうになるのを必死にこらえた。
　「んで、もう入会用紙は渡したんか？」
　「もちろんです。」
　甘かった。
　「あ、あの」
　「おー、俺、九城。よろしくな、えーと」
　「織河七海です。私考古学部だけで手一杯なんで、とても掛け持ちは無理です」
　「……え、そうなん？　残念やな十崎……まあ、ええか。研究室に来るんやったらだべるくらいはできそうやし」
　「あっさりあきらめるなんて、らしくないですね。それに九城の口から、そんな前向きな言葉を聞くなんてがっかりですよ」
　十崎はそういうと、机の中から三冊の本を取り出した。
　「今入会したら、もれなく必ずゼミで薦められるこの三冊をさしあげましょう」
　「いえ結構です。そんな問題じゃありませんてば」
　即答する七海に、
　「この三冊、絶対必要なのに高い上、なかなか手にはいりませんよ。サークル活動っていっても大半だべっているだけなので、部の支障にはなりません」
　七海の髪の毛を、よこっちょで括っているぽっちが動揺で揺れた。一人暮らしでお財布が厳しい上、一刻も早く勉強がしたい。
　「乗せられちゃダメっ、織河さん！　お嫁にいけなくなるわよ」
　桃井のとんでもない援護射撃に、一瞬で我に帰るが
　「「それは無い」」
　九・十コンビに、軽く否定される。
　「しかたありません。とっておきの物件を出しますか」
　欲の皮の突っ張った娘ダヨ、キャシー、などと呟く十崎にムッとする七海。
　だが、続いて取出された厚い洋書に、桃井のみならず、なんと黒田までが、声をあげた
　「「それは……」」
　「コリンレンフルーのアーケオロジー。これもまた、なかなか手に入らない上に高価です。しかも初版。准教授も持ってないのがミソです。」
　いいなあ、という呟きに振り返ると、桃井はバツが悪そうに眼を逸らせた。
　「なんでそんなの持ってんだ？」
　黒田の呆然とした独り言が、七海のハートを、夜中の通販並に焚き付けた。
　「あ、あくまで参考のため聞くんですけど、サークルの活動日ってどんなシフトで実際どんなことをするんですか？」
　織河さん、らめぇという桃井の悲痛な叫びに胸を痛めつつ、七海は冷静を装って聞いた。
　十崎はにっこりと笑って言った。　無邪気に見えるところが、怪しさフルスロットル。
　「活動日は毎日で出席はほぼ自由。いままで一人も来なかったでしょ？　活動内容は、主に昔なつかしの漫画やアニメについてだべること。だらだらと懐かしいものについて語るサークル、略してＤＮＣです。昔の事をねちねちくどくど勝手に妄想し、地面に空いてた穴ぽこから、適当にそれらしいウソと建物を立ち上げて、あわよくば観光名所として儲けてやろうと言う、浅ましい考古学の一環と考えてください」
　「……おい」
　桃井の突っ込みを、軽やかにスルー、十崎は続ける。
　「会費はなし、退会は自由。でなければ、本代を稼ぐために水商売に身をやつした女教師のようになりますよ。それをネタに、英語教師に強請られて、夜の学校であんな事やこんな事……」
　「菊地秀行の、読み過ぎです。これ以上、私の立場を悪くしないで下さい」
　十崎の表情に、一瞬だけ感嘆の色が走ったが、すぐに、
　「そうですか」
　残念そうに眼を逸らした。その伏せられた眼差しには、狙った獲物をゲットし損ねた落胆が、ありありと見て取れた。
　「しかたありません。では淋しさを紛らわせるため、滅多に来ない上、来てもすぐ帰る九城に……」
　十崎は悄然と呟いた。
　「毎日来てもらいましょう」
　七海は足元から、全身が石化していくのをたしかに感じた。
　周囲の空気が、零下にまで下がる。
　「えー、そんなめんど」
　「九城、夕佳さんを見送って三十秒後に、ホームにいたヤンキーを三人とも病院送りにした件ですが」
　「……くないようん。まかせとけ」
　九城は快活に言った。
　ああ、消防署でバイトしてるのかな、とかありえないことを、白くなった頭で考える七海。深くは考えたくなかった。
　気配に気付いて周囲をみると、部員たちが手振りと口パクで必死に訴え掛けていた。
　いっとけ。いいから、いっとけ。
　「う、売るんですか？　ヒドい、ヒド過ぎます！」
　桃井を振り返ると、他の女子部員たちに口を抑えられ、ムームー言っている。なんだかかわいい。
　 「十崎さんも、恥ずかしくないんですか？　そこまでして、なんで私なんです？」
　もう涙目で、手足をじたばたしながら、ヤケクソで叫んだ。
　「菊池秀行の、バイオニックソルジャーシリーズを知っている十代の女の子なんて……まさか、二十年近く前の、官能シリーズにまで手を出しているとは、このスケベ」
　「きぃやぁぁぁぁ！」
　「錯乱しとるやんけ。やめたれや、もうええやん」
　九城が心配そうに言った。
　その時思わぬ方向から横槍が入った。
　「織河。静まれ」
　黒田の静かな声が、七海を現世に引き戻した。
　黒田が片足を痛そうに引きずりながら、机によりかかって立っていた。
　「十崎、織河は考古学部の部員だ。俺には元部長として、彼女を護る義務がある」
　「いままで散々痛ぶっておいて、どの口が言いますか」
　「護る義務があるって言ってるだろ？」
　黒田が何故か悔しそうに強調した
　「こいつは、山を最後まで登って来そうなんだ。頂上まで来てから、こんなはずじゃなかったって言わせたくない」
　「あなたみたいにですか？」 
　 黒田は眼をそらした。
　「織河。談話室まで来てくれないか」
　「はい」
　七海は話の急転回についていけないまま、反射的に返事した。
　誰も何も言わなかった。
　
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		<dc:subject>-</dc:subject>
		
		<dc:date>2011-02-02T20:28:37+09:00</dc:date>
		<dc:creator></dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://ryou0910.novel.wox.cc/entry2.html">
		<link>https://ryou0910.novel.wox.cc/entry2.html</link>
		
				
		<title>第一章　ＤＮＣへようこそ　1</title>

		<description>　
　時間は、午前十一時前。
　構内は…</description>
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			<![CDATA[ 　
　時間は、午前十一時前。
　構内は、勧業会館での入学式を終えた、新入生であふれ返っている。
　四月の日差しが、柔らかく校舎と学生達を照らしてくれてはいるが、肌寒い。
　織河七海（おりが　なつみ）は、校門をくぐると、唇を軽くへの字に曲げ、今日から通うことになる、校舎の時計台を見上げた。ウェーブした髪を、肩の少し上で切りそろえ、大き目のぽっちで、よこっちょを一房括っている。漆黒の大きな瞳、高すぎない鼻と桜色の唇。新調した紺色のスーツから覗く形の良い脚が、彼女の身長一六〇センチ弱の三分の二近くを占めている。ともすれば、敬遠されそうなレベルのプリティフェイスを、まだ色濃く残る少女の面影が、親しみやすい雰囲気に和らげていた。
　京都大学正門前。
　四月の初旬、満開の時期は過ぎたものの、彼女を迎えるかのように、通りの両側に立っている桜の木達が、恭しく手を差し伸べている。
　「合格して、ここの桜並木を歩くのが、夢だったんだ」
　咲き誇る国花が、七海の胸を誇らしい気持ちで満たした。
　きれい……お祝いしてくれてるみたい。よくぞ、ここまでたどりついた、我が精鋭たち……っていうか 私
　七海は舞い散る桜を眺めながら、小学五年生から今までの自分史に、思いを馳せた。
　寂しい八年間だったな。ほとんど友達もいなかったし。
　七海が育ったのは、緑に囲まれた大阪の能勢だ。
　小学校低学年の頃は、こたつの中で鶏の卵を抱いて暖めたり、コックリさんに熱中して、親に叱られたりする普通の女の子だった。だが、高学年になってから、兄の本棚にあったマンガを呼んだのがいけなかった。
　なまじ漢字に強かったのが災いしたのだ。
　英国空挺部隊上がりの考古学者が、変な武器を持って襲い掛かってくる変人と戦ったり、どう見ても無許可で個人的に発掘をするという、今考えるとあんまり学問には関係ないお話なのだが、当時の七海はハマッてしまった。
　進路は決まった。
　目指すは、京都大学考古学部。
　その決意を表明し、かつ実行すると、周囲の反応はさまざまだった。
　両親は、手放しで喜んだ。
　我が子が自発的に、国立大学を目指そうというのだ、喜ばない親はいない。
　兄は正義の味方には勉強など必要ない、と言って日がな一日中、決めポーズと高いところから飛び降りる練習しかしていなかったので尚更だ。
　ただ今まで遊んでいた、お友達の態度の変化が辛かった。
　自ら通い始めた学習塾のせいで、今まで廃病院の探検なんかには欠かせない存在だった、七海の欠席が目立つようになり始めた。
　"なつみんは変わってしまった"
　"おたまじゃくしから、足が生える瞬間をみるために、朝の八時から夕方の五時半まで（五時半から、見逃せないアニメがあったのだ）水槽を眺め続けた、タマシイをなくしてしまった"
　"もう奴には、ドッヂで背中を任せられない"
　そんなわけで、お友達からの誘いがどんどん減り、最後にはなくなってしまった。
　「今思えば、低学年がグループにいっぱい混ざっていたとはいえ、小学五年生にもなってやることではないよな」
　七海は行き交う様々な年齢層の、新入生を見ながら独りごちた。
　髪を括っているぽっちを、胡桃のようにゴリゴリ手の中で擦り合わせて、クールな振りをするようになったのは、その頃からだ。バカバカしいことを、しなくなった子供は子供じゃない。
　「だから私は、子供じゃないもん……そうやって強がってたっけ」
　塾の友達とは仲良しだったが、進学専門の厳しいところだったので、塾の間での付き合いでしかなかった。
　勉強しては、マンガを含む読書に、没頭する生活。
　それだけの犠牲を払って、勉強漬けの学生生活を送ったのだ、落ちたら眼も当てられない。
　去年の春、模試でＣ判定が出たときは、この世の終わりかと思った。本気でベランダから、放物線を描いてジャンプしようかと思ったくらいだ。自分の事を頭が良いと思った事は無い七海だが、時間さえ貰えればどんなことでもがんばれる自信があったし、実際努力した。
　頭のいい人は、勉強なんかしなくても合格するんだろうな。夜遅くまで予備校の課題に追い込まれ、意識が朦朧とした時には、その言葉が自分を苛んだものだ。
　「それもこれも」
　くわっと時計塔を睨み付ける座りきった目付きには、八つ当たりにも似た怨念が、どろどろと渦巻いている。ブツブツ独り言を呟いている、美少女に脅えた何人かの新入生が、必要以上に彼女を迂回して通り過ぎた。友達がいないと、どうしても独り言が多くなるのだ。
　「ここで夢を叶える為。待ってろ、卑弥呼」
　七海は気合を入れて、最初の一歩を踏み出した。
　
　
　オリエンテーションを終えて解散し、人で溢れかえった廊下を歩く。
　まだ、履修要綱やら、四月中のスケジュールを聞いた今でも、大学生になった実感はぜんぜん湧かない。
　だが、おろしたての靴を履くときのような、わくわく感は七海の胸を満たし、足取りを軽く大胆にしていた。
　ついて来てくれる友達なんかいないけど、そんなにやわじゃないもんね。
　七海は一人で目的地を目指す。場所は知っている。高校生のとき自分を励ますため、何度かこっそり見に来たことがあるのだ。
　体育会系クラブの勧誘をあしらいつつ、新棟の三階にある考古学研究室のドアの前に辿り着いた。
　真新しい金属製の扉は重く、大型の遺物などを搬入するためか大きい。
　七海が不思議に思ったのは、扉の前に人気がないことだ。　新入生を勧誘するつもりがないのだろうか。
　逡巡の後、思い切って扉を引いた。
　室内は大きめの理科室という感じで、高校の教室の半分くらいあるだろうか。部屋の真ん中に、六畳ほどの巨大な机があり、部屋の大半を占めている。
　考古学の授業で使用するため、土器や、遺物の図面を描く道具やトレース台も部屋の隅にある。
　七海の目を引いたのは、窓際に置かれた粗末な机と、そこに置かれたノートパソコンを操る男の姿だった。
　より正確に言えば、その左手にじゃれつく二つの小さな影だった。
　雑種らしき猫達が、男の掌から何かを食べている。
　室内に、一人だけしかいないその男がこちらを向いた。
　四回生くらいだろうか。穏やかなまなざしが印象的だった。いや、しっとりと濡れた様な黒髪、高すぎない鼻、整った眉に穏やかな微笑み。華やかさは無いが、じっくり見ると男前かも。黒いハイネックの長ＴシャツにＧパンという飾り気のないいでたちでも、それなりに垢抜けた印象だ。全体的に柔らかい、中性的な雰囲気を纏っている。
　「ほら、人が来たぞ。行け」
　その男は優しく猫たちを追い立てると、窓から出て行くのを見送った。
　七海の方に色白の顔を向ける。
　「こんにちは」
　暖かい声と、凪いだ海を思わせる優しい笑顔を向けられ、七海は鼓動が高まるのを感じた。
　「こんにちは。名前なんていうんですか、あの子達」
　「ジャギとハートです。どちらもメスですが」
　呼び名ですでに虐待ですね。
　七海はツッコミを辛うじて飲み下し、聞いてなかったふりをするために、あたりをさも珍しげに見回し、分かり切ったことを聞いてみた。
　「ここ、考古学研究室ですよね？」
　「そうですよ」
　「考古学部の方ですか？」
　男はわずかに目を見開いて
　「入部ですか？」
　と問うて来た。
　「はい」
　ハッキリと答える。そのためにこの学校にきたのだ。
　「あー……そうですか」
　男はそっかーと重ねて呟くと机から一枚の紙を取り出した。
　「じゃあ、これ入部届」
　Ａ四用紙半分程の大きさの紙に目を通す。氏名やクラス書き込む欄の他に。
　「……ＤＮＣ？」
　本来考古学部と、書いてあるはずの場所に記載されていた、アルファベットに、七海は眉をひそめた。
　男が口を開こうとした、ちょうどその時、七海の入ってきた扉が開いた。
　「こんにちはー……あれぇ？　あなた、新入生？」
　七海も、慌てて挨拶を返す。
　肩掛けかばんを提げて入って来たのは、小柄でおっとりしたしゃべり方の女性だった。ゆるくウェーブのかかったロングヘアーに、ピンク色のセルフレームの眼鏡を掛かけていて、けっこう可愛い。面倒見のよさそうな、長女っぽいイメージを纏っている。
　女は七海のもっている、入部届を見て怪訝な顔をし、その表情を十崎に向けた。
　「十崎（とざき）さんの、知り合いですか？」
　「ええ。知り合って、一分足らずの仲です」
　十崎と呼ばれた男は、淡々と答えた。
　女は七海に視線を戻した。
　「貴女、考古学部に入部しに来たの？」
　「え、は、はい」
　成り行きに戸惑いながらも答えた。女は十崎のほうに向き直り、
　「もう、十崎さん。シャレにならない悪ふざけはやめてくださいよう」
　怒ったように言った。
　シャレにならないって？　七海は女の台詞に軽く引いた。
　「あの、どういうことですか？」
　「それ考古学部の入部届けじゃないの。十崎さんとこの」
　「え？　え！」
　「ＤＮＣってサークル」
　「そうです……ロードウォーリアーズみたいなメイクをしてえんどうみちろうのように喚くのです。」
　「い、いやです。なんだかよくわからないけど、楽器はピアノとマンドリンしかできません。パンクなんか無理です」
　十崎の眼に、突如強い関心の光が宿った。
　「……！　えんどうみちろうの方に反応するとは……タダものではありませんね。是非我がギルドに欲しくなりましたよ」
　さっきまではどうでもよかったんですが、と付け足す十崎に、
　「もうそこまでにしといてくださいね、彼女未来ある身なんですから。それにだまし討ちなんて感心しませんよ」
　と女が溜め息混じりに言った。
　「嘘はついてませんよ。それに説明しようとしてました」
　「あ、そなの？」
　「はい。入部してもらってから」
　「「意味ない！」」
　「なんでです、桃井さん。はいってから説明聞くのも、説明聞く前に入るのも、どうせ入るんなら同じでしょう。」
　「なるほど、確かに『閉じたり閉まったり』くらい言ってる意味はおんなじね」
　桃井が感心する。
　「わかりません！　熟れたてフレッシュくらいに意味がわかりません！　なんで私が入部するのが、前提なんです！？」
　十崎は突然、尊大な口調で一席ぶち始めた。
　「この目の前の饅頭を見たまえ。食べてみないとどんな味かわからないだろう？　まずは試してみることだよ……僕は怪しげな新興宗教の教祖にそう言われたことがあります」
　「……で、入信したんですか？」
　と七海。
　「いえ、和菓子嫌いなんで」
　「はあい、そこまで」
　桃井と呼ばれた女が手を叩いて会話を遮った。
　「こっちきて」
　桃井が七海の肩を抱き、十崎に背を向けて離れた。
　「乗せられちゃダメ。十崎さんの渾名は振り向いてはいけない背後の声よ」
　あー……ピッタリだ。名付けた人、天才。
　「で、考古学部の見学に来たのね？私は桃井早苗。三回生で考古学部」
　七海もほっとしながら自己紹介をした。
　十崎は何事もなかったかのようにノートパソコンに向かっている。
「見学じゃなくて入部したいんです。定員埋まっちゃったら困りますし」
　桃井は頭を掻きながら
　「今うちの部、校舎の目立たないとこで勧誘してるけど……先ず定員オーバーはないとおもうなあ。織河さん、よっぽど考古学やりたいんだ？」
　「はい。私、小さい頃から歴史の本が好きで、将来」
　後日、七海は桃井の親しみ易いキャラが悪いんだと逆恨みする。
つい言ってしまったのだ。
　
　「邪馬台国を見つけるのが夢なんです」
　
　「あー……はは、スケールでっかいねえ」
　「笑顔で腐海に突撃するとは、なんと言う逸材……格闘技で言えば、コッポウ習ってましたくらいのタブー。ますます欲しくなりました」
　「え？　え？」
引きつった桃井の顔と、眼を輝かせている十崎の顔を、交互に見比べて七海はにわかにテンパりだした。
　「私何かおかしな事……」
　「いーのいーの。ささ、それよりみんなのとこに行こう。紹介するよ」
　「自覚なしとは……堪えられませんね」
　「そこうるさい。いこいこ」
　桃井に肩を押され、七海は出て行った。
　
　
　「いるんだよな、そういう単純っていうか考古学勘違いしてるヤツ……幾つだよ」
　眼鏡に生え際の後退した細面、いかにも研究者然とした神経質そうな男がジョッキから口を離すと厭味ったらしく吐き捨てた。
　周囲から場を凍らせないためであろう、乾いた笑い声があがる。
　七海は小さくなって手許を見つめた。
　入部してから三日目、講演等で使用される、公会堂内の会議室で行われる事になった新歓コンパ。
　七海の気分は最悪だった。
　「黒田さん、言い過ぎでしょ。最初はみんなそんなとこから入るんだから」
　七海の隣りに座った、桃井がたしなめる。
　ほぼ正方形のテーブルを囲んで、二五人の院生を含む研究生、考古学部員が囲んでいる。
　女性は七海を含め、六人と少ない。
　「桃井は甘いんだよ。ここで考古学やろうってんなら、発掘現場の説明会まで暇つぶしにきてる年寄りみたいな考えは、はじめに潰してやらなきゃ。考古学実習の定員も毎回いっぱいなんだから、勘違いに気付いて、辞めるヤツは早めに放り出すべき」
　強い口調で断じると、桃井は困ったように黙り込んでしまった。七海にもそれは理解できるが、もうすこし言い方があるのでは。
　「言い方キツいか、新入生？　おれ東京者だからさ」
　また周囲で、硬い笑い声があがる。七海はあいまいに笑って、またうつむいた。
　「ひとつ教えといてやるよ。邪馬台国だ卑弥子だってのは、昔の書物に存在が書かれてただけの代物。アトランティス大陸とかと、それほど変わらない。なんとかの暗号みたいなクダラネェオカルト本とか、それで金儲けしようってヤツらの飯のタネなだけ。わかったかい、ど素人」
　「は、はい」
下腹部に見えない刃が、ザンザン刺さるのを感じながら七海は返事した。
　よかった。
　額田のオオキミの暗号って本、面白いですよね、とか言わないで本当によかった。
　七海は背中に冷や汗をかきながら、これ以上状況が悪くならなくてよかったと必死で思おうとした。
　「しかし、部室にだれか残ってたのか？　みんな勧誘に駆出したのに……十崎？　ああ、あいつか。いつか埋めてやる」
　
　解散したあと、七海は一人暮らしをはじめたマンションまでとぼとぼと自転車を押して帰った。
　途中まで帰り道の一緒だった、桃井がいれてくれたフォローが、耳に木霊している。
　 『あの人も、実力あるのに助手になれなくて、イライラしてるみたいでさ、現場では、面倒見のいいひとなんだけど』
　  なんとかその言葉に慰めを見出だそうとするが、うまくいかない。そもそも自分の状況がよくなかったら、周りに八つ当たりして良いとか、面倒見がよければ普段どんなことを言っても許されるなんて思えない。自分の脳裏に浮かんで来る、多分正しいであろう言い分がどうしても消えない。
　「何よ，ハゲのくせに」
　呟いてみたが、あんまり気分はよくならない。なにせ、そのイヤなハゲと、何年も一緒に、机を並べてやっていかないとならないのだから。
　この先の事を考えると、七海は泣き出しそうだった。
　
　「いやあ、まさしく趣味の世界ですからね、邪馬台国とか。アーサー王子とかと変わりません。」
　翌日浮かない顔で、研究室に顔を出した七海に十崎がいった。
　二人しかいない研究室にノートパソコンのファンの音だけが響く。昨日はどうでした、の話からこうなったのだ。
　「研究者になるのは大変ですよ。人間関係が、特に。それと考古学って趣味としては楽しいけど仕事にしちゃえばみんな同じ……らしいですよ」
　七海は悲しくなって言い返した。
　「なんでみんなそんな風に研究者になるのを諦めさせようとするんですか？私何かしましたか？」
　 十崎は穏やかに微笑んで言った
　「食べて行くのが、難しすぎるからですよ」
　七海は息を飲んだ。
　十崎さん、この人……
　「だから、さあ、我が団で全てを否定し、五人のゴッドハンドを崇めるのです」
　最低だ。
　「私は考古学者になりたくてこの大学にきたんです。贄になるつもりも鷹の団にはいるつもりもありません」
　十崎の眼に動揺が走った。
　「……何者です、あなた」
　バカバカしいと思いながらも、ちょっとだけ溜飲がさがる。
　「なら食べられるようになるまで、がんばるだけです」
　七海は、頬を膨らませて言った。
　「では研究テーマで、みんなを見返してやるべきです。大体論文のタイトルを聞いたら、その人の知識の深さがわかります」
　「そう……ですか。じゃあまずは知識をつけないと」
　「コロポックルなんかお勧めです。北海道に住んでいたという、伝説の小人」
「……もういいです」
　その時ドアが開いて、黒田が入ってきた。　七海はお腹の底に嫌なストレスを感じつつ慌てて挨拶する。　黒田は、七海と十崎の方をチラリと嫌そうに見ると、
　「おしゃべりに来たんなら帰れよ、邪馬台国」
　と憎々しげに吐き捨て、早足で席に向った。
　すみません、七海はうつむいて呟くと、席についた。
　とりあえず桃井に薦められた、基本の洋書を開く。
　十崎は気にした風もなく挨拶をすると、またノートパソコンに向き直った。
　しばらくの沈黙の後、黒田が言った。
　「おい、邪馬台国」
　七海はびくっとした。
　「あ、あの織河七海です」
　「そうか、悪かったな、邪馬台国。で、なに読んでんだ？」
　「あの、桃井先輩に薦められて……」
　読んでいた本を掲げて見せた。聴講生の試験などにも使われる比較的易しい
　洋書だ。研究室の隣にある書庫から借りた。
　「辞書使ってんの？」
　「あ、はい」
　「コリン・レンフルーなんかで？　学生やめちまえ」
　「……すみません」
　十崎は黙ってノートパソコンを触っている。
　七海は泣いちゃいそうだった。
　
　
　十崎は、すっかり凹んでしまった七海をちらりと見ると、思いついたように検索エンジンに、彼女の名前を打ちこんでみた。
　検索結果を、一瞥した十崎の動きが止まる。
　表示された一件目から五件目まで全てに、彼女のフルネームが含まれているのだ。
　十崎は、しょんぼりと本を読んでいる彼女を再度一瞥すると、そこから拾った新しいワードを、彼女の名前から１マスあけてペーストした。
　検索。
　表示される去年の日付と、出身校。放映日。
　十崎のノートパソコンを操る動きが忙しくなった。
　その後三〇分かけて、芋づる式に検索を続ける。
　講義で中断したが、夕方から検索の続きを研究室で再開する。
　織河。おりが。オリガ。七海。ナツミ。なつみ。
　織○七　　河○海
　スペースを入れ、増えていくキーワードを加えながら、思いつく限りの検索方法を試す。
　最後にたどり着いたのは、だれも訪れることがないであろう、男子高校生のプロフであった。
　十崎の眠そうにすら見える、湖面の様な瞳が爛々と輝き……唇が吊り上った。
　笑いの形に。
　
　　怨敵：オリガ○海――最低のビッチ――これを見てる奴ら、楽しみにしてろ。見てくれだけはいいあのメスを、次は素っ裸にして晒してやる……　
　　「……スフィンクスゲームで」
　陽も暮れ、誰もいなくなった室内で、十崎は我知らず、これから始まる物語の序章を呟いた。
　「虫も殺さないような顔をして……楽しくなってきたじゃないですか」
　
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