スフィンクスゲーム~クルディスタンから来たニート~(愛される資格 ~いつの日も汝の上に~より改題) あらすじ

この戦争はまさしく、口撃力と攻撃力の戦いであった。念願の京都大学に合格した織河七海は入学式の日、考古学部の部室を訪れる。そこで出会ったのは十崎という掴みどころの無い男だった。七海は首尾よく入部したものの、先輩からのネチネチとしたイジメに悩まされる。
その窮地から七海を救い出してくれたのが十崎とその仲間のならず者にしか見えない九城という男だった。
交友を深める3人を余所に、イラク北部からウルと呼ばれる女が来日する。目的は、ウルがボランティアとして滞在する村の者が以前贈った遺物を
十崎から買い取ること。十崎はかつて、イラクで冥府からの声と呼ばれた、暗殺者だった。違法な遺物の取引に手を染めている
彼を見張るために米軍に雇われ、派遣されていたのがイラクで狂犬と恐れられた傭兵、九城であり、ウルの来訪を期に全てが七海に露見する。



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第二章 ウル
  
 イスラム教。
  八世紀に現在のサウジアラビアで、ムハンマドが興した、アラーを唯一の神とする、世界三大宗教の内のひとつ。
 偶像崇拝を禁じ、生活習慣の細部まで規範がある。
 
 
 イラク。
 一九四〇年代にアラビアのロレンスで有名な、英国に嵌められるまでは、メソポタミアと呼ばれた地域。
 二〇〇三年、アメリカは査察により、この国のミサイルその他の兵器を押さえ、丸裸にしてから侵攻した。アメリカの介入を歓迎したのは、政府の中枢を占める少数派のスンニー派に抑圧されていた、クルド人と、シーア派イスラム教徒達である。
アメリカは、早々と勝利宣言したものの、かつてのアフガニスタン・ソ連のように、戦況は果てしない泥沼に突入する。
 そして、アメリカ軍、イラク人共々、戦時中、他国から紛れ込んできたイスラム過激派による宗派、民族の区別なく行われるテロに悩まされることになる。
 古より、独立を悲願するクルド人は、世界最大の土地を持たない民族達である。イラク北部に隣接するトルコ、イランにまたがって生活しており、その元遊牧民が住まうイラク北部地域は、現在、クルディスタン自治区と呼ばれていた。
比較的治安が安定しているため、南部から流入したアラブ人たちの避難場所にもなっている。
 彼女はそこにいた。
 
 眼下に広がる峻峰を、彼女はいつものように眺めていた。
 峰を渡る風は冷たく、身にまとっている色褪せた、緋色の民族衣装と多くはない装飾品を奪い去ろうとするかのように、容赦なく吹き付ける。
イラク北部の山間にある、寒村にまだ春は訪れない。
 彼方まで見通すことが出来る白い乾いた景色の中、古代の城壁に囲まれた都市、アルビルが遠くに見下ろせた。
 空だけが高く青く、赤茶けた大地との境目で、芒洋としたコントラストをなしている。
 「ウルー」
 呼び掛けに、彼女は振り向いた。
 被りものからこぼれる黒髪を風が梳き、褐色の顔を覆う。
 それを細くしなやかな指が払いのけると、意志の強さを湛えた黒曜石のような瞳、次いで美しい顔がさらけ出された。
ただ、彼女を創造する際、天の何者かは、少しばかり悪戯心を発揮したようだ。整った鼻梁、薄く引き締まった口許、それらが織り成す調和は、アラブ系にも極東系にも見え、容貌から国籍を判断する事が困難だった。
だが美貌と言うには、まだどこか可憐さを残したそれは、どの国の基準で見ても美人だろう。どこか近寄り難い雰囲気を感じさせるのは、その容姿のせいというより、全身から発散される気品によるものだ。
 薄汚れた民族衣装を着た、アラブ人らしき少年は息を切らして立ち止まった。
 「サラーム、アラディン」
 女が低く、官能的とすらいえるハスキーボイスで言った。
 「サラーム。ハシム師がお呼びだよ……今日は何か見えた?」
 少年は山々に視線を向け、次いでウルと呼んだ女の、澄んだ瞳に眼をむけた。
 「いや。何もない」
 素っ気無く女は言ったが、少年はにっこり笑っただけだった。
 歓声に眼をむけると、少年が走って来た村の方からバラバラとこっちに向かって子供達が、一ダースほど駆けてくる。
 ウルの来訪が、伝わったのだ。
 それを見たウルは、一瞬表情を緩めたが、直ぐに口許を引き締めた。
 「そのあたりで止まれ。」
 大声で制止した。
 ウルの立っているあたりからは、足場が悪く危険なのだ。
 「危ないから、ここまで来ては駄目だと、何回言わせるんだ」
 子供達は素直に従い、ウルのかなりキツい物言いにもかかわらず、一様にニコニコしている。
 ウルが近寄ると皆、我先にしがみついて来た。
 「ウル、遊ぼうよ」
 口々に叫ぶ。
 「後でな。ハシム様に呼ばれているんだ」
 遊ぼ、遊ぼ。
 アラディンは笑い、
 ウルに眼くばせした。
 ウルが微かに顎を引く。
 「さあみんなモスクまで走るぞ。誰が一番早い?」
 ウルは叫ぶや駆け出した。
 皆も雪崩をうって走りだす。
 ウルは徐々にスピードを落とし、最後尾の泣きそうになって、よちよち皆の後を追う女の子を抱き上げた。
 「行くぞライラ」
 一瞬にして笑顔になったライラが、歓声を上げてウルにしがみつく。
 イラク人でないウルが、ここにとどまる理由。
 彼女が守るべき子供達。
 
 ウルはアラディンと、モスクの入り口で別れた。
 モスクといえば、壮麗で巨大なものを想像しがちだが、実際はプレハブ建ての公民館程の規模や、マンションの一室であったりする。ウルが通う村のそれも、レンガ造りで小規模なものではあったが、周囲は綺麗に掃き清められ、信者が大切にしている施設であることは一目でわかる。
 ウルは鳥の囀りに送られながら、扉のない入口をくぐり、高校の教室二つ分程の広さの礼拝所を抜けた。 その奥の十二畳ほどのスペースに、壮年の男達が十人程座り込んで談笑していた。 部屋に漂うチャイの香に気が弛みそうになる。
 「サラーム」
 ウルが平安の挨拶をすると、あちこちからパラパラと挨拶が帰ってくる。
 「師よ、お呼びですか」
 上座に座っている細身で赤色のベストを羽織った五〇前らしきアラブ人に声をかけた。
 「よく来てくれた。座ってくれ」
 ハシム師は言った。
 低く、よく通る声だった。穏やかな笑みを浮べている。 他の男達も会話をやめてウルに眼を向けた。
 無遠慮な視線にももう慣れた。 最初の頃は、その眼の中に読み取れる、年頃の女性として耐えられない下卑たものに反発し、ことさら攻撃的になったものだが。
 一六五センチの長身にグラマラスなスタイル、大抵の男が振り返るであろう魅力的な顔立ちに大きな要因があるのだが、本人は全く気付いていなかった。
 十代の頃の苦い記憶とイスラム教徒としての規範が異性に対して堅固なバリヤーをまとわせていたせいだ。
 ウルが一礼して座ると、奥から黒いチャドルですっぽりと全身を覆った女がチャイを運んできた。 礼を言い、湯気をたてる透明の、硝子の器に口をつける。
 フルーティーな芳香が口腔内に広がり密かに眼を細めた。 ウルの好きなトルコ等で飲まれる林檎のチャイだ。
 「ウル。子供達に追い回されて大変だな。羊の世話でもしてるほうが楽だろう」
 ハシムが軽い口調で言った。
 「たしかに楽ではありませんね。でも楽しい事も多い。ライラは少し体重が増えたようです」
 「ほう、それはよかった。あの子は小さいからな。食べ物の好き嫌いが減ってくれればいいんだが」
 ハシムがうれしそうに言った。
 ウルが、彼を尊敬している点はここだ。
 村を治め、イスラム過激派やよそ者のアラブ人をよく思わない、一部のクルド人達から皆を保護しながらも、子供達の状況を把握している。
 「それから、アラディンがノートを欲しがっています。もう書くところがありません。英語の教科書も。それとヌールに新しい下着を。あと……」
 「おい、そんなことは後にしろ。子供のほしいものを聞くためにお前を呼んだわけじゃない」
 体格のよい粗野な容貌の男が、ウルの言葉を遮った。
 ウルが敵意を隠さず向けた視線を、ハシム師の親戚にあたるその男が濁った眼で受け止めた。
サダム。
以前暗がりで、ウルに抱き付いてきた男だ。
「貴様に気安く、お前呼ばわりされる筋合いなどない。何度も言わせるな」
 その時の事を思い出して、ウルの怒りが増幅しそうになる。
 「口の聞き方に気をつけろ! 異人の女!」
 サダムの方でもその際ウルに踵で急所を蹴られ、目を指で擦られ、彼女がいつも持歩いている棒で、気絶寸前までめった打ちにされた時の屈辱が、よみがえったのだろう。
 アラブ人は感情の起伏が激しく、面子を事の他重んじる。
 ウルが密殺されない理由は……
 
 
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