スフィンクスゲーム~クルディスタンから来たニート~(愛される資格 ~いつの日も汝の上に~より改題) あらすじ

この戦争はまさしく、口撃力と攻撃力の戦いであった。念願の京都大学に合格した織河七海は入学式の日、考古学部の部室を訪れる。そこで出会ったのは十崎という掴みどころの無い男だった。七海は首尾よく入部したものの、先輩からのネチネチとしたイジメに悩まされる。
その窮地から七海を救い出してくれたのが十崎とその仲間のならず者にしか見えない九城という男だった。
交友を深める3人を余所に、イラク北部からウルと呼ばれる女が来日する。目的は、ウルがボランティアとして滞在する村の者が以前贈った遺物を
十崎から買い取ること。十崎はかつて、イラクで冥府からの声と呼ばれた、暗殺者だった。違法な遺物の取引に手を染めている
彼を見張るために米軍に雇われ、派遣されていたのがイラクで狂犬と恐れられた傭兵、九城であり、ウルの来訪を期に全てが七海に露見する。



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 気まずい。
 右斜め前方に、視線を走らせる。
 七海は談話室で、ウルと二人きりだった。
 突然、研究室に戻ってきた彼女に、彼からあなたに連絡があるはずなので、そばにいさせてほしい、と頼まれ、帰り支度を整えていた七海は、戸惑いながらも頷いたのだ。
 パイプ椅子に腰掛けた、ウルのどこか悄然とした姿に、十崎さんとなにかあったんだろうな、と思いながらも、それには触れることができなかった。相手が俯いているのをいいことに七海はウルをじっくりと観察した。
 肩にかかる黒髪、八頭身のスタイルに、意志の強そうな面立ち。どこの国の基準でも美人だろう。
 そして日本人ではないだろうに、流暢な日本語。友人を見ればその人が分かるというが、ますます十崎という人間が分からなくなる。
まあ、彼らしいっちゃあ、彼らしいが。
 沈黙という名の不可視の妖精が、二人がL字型にはさんだテーブルの上で、かれこれ一〇分間ラインダンスを踊っていた。
 こちらから、電話をかけようと思った矢先、ウルだけではなく、七海も又待ちこがれていた着信音が、静寂を破った。
ウルが弾かれたように、顔を上げる。
通話ボタンを押して、妙に緊迫感のある、スーパーマリオが土管に入ったときのBGMを遮った。
  「この着信音は、十崎さんです……もしもし」
ウルに問われる前に、七海は言った。
 「やあ、いとしのハニーですね」
 「……あなたがお掛けになった電話番号は、ずっと通話中であるか十崎さん禁止のため、お繋ぎすることができません。反省するか、いっぺん死んでから、お掛け直し下さい」
 コメカミに青筋を浮かべたまま、七海は平板な声で言った。
 「ああっ! 切らないでください。なんでこれぐらいでそんなに怒るんですか? 短気はあなたの欠点ですよ」
 「それをいうなら、十崎さんなんか、息をしていること自体が、神様の計画ミスじゃないですか! もう、さっきからお客さんがお持ちですよ。代わりますね」
 「その前に、そこにハンズフリースピーカーがあるでしょう? 繋いでください」
 「え……でも」
 七海は研究室の備品である携帯電話を接続する為のスピーカーを見た。
 携帯通話が、無料になったキャリアが多いため、遠方の研究生と、意見交換をするためという建前で揃えたのだ。
 「構いません。二度説明する手間を、省きたいので」
 七海は、言われたとおりにしてから、じりじりしていたウルに、自分の携帯を渡した。
 「代わった。貴様よくも……」
 ドスの効いた声音と、突然の激しい口調に、七海は十光年ほどドン引きしたが、ウルは構わず続けようとした。
 「そういうあなたこそ、よくも、あんな危ないオッサンに、私を襲わせましたね。危うく殺されるところで、わくわくしちゃいましたよ」
 ウルは、はっとして十崎の声が流れ出て来た、スピーカーの方を振り向き、それから咎めるように七海のほうを見た。
 慌てて言い訳をしようとした七海だったが、ウルは直ぐに会話に戻った。
 「盗みをした、貴様の自業自得だろうが。取引はもういい、あれを返せ。さもないと、どこまでも追いかけ、貴様の息の根を止める」
 冗談には聞こえないウルの警告に、七海は事態の深刻さを悟り、蒼白になった。
 「そうですか……だけど残念ながら、取引に応じることにしました。もうダイエットのために、徒歩で移動中の物部くんには伝えてあります。このチェロキー外見の割には、快適ですね」
 ウルは、堪えきれずに叫んだ。
 「貴様いったい何がしたいんだ!」
 「……この時代に、皆がなくそうとしているものを伝えたい……。まぁ、青臭い理想論ですが」
 …………。
 ウルは雷鳴が似合いそうな沈黙の後、地獄の底から響いてくるような、低い声でいった。
 「……次に会ったときが、貴様の命日だ。必ず頭蓋骨を叩き割ってやる。必ずだ」
 「いいでしょう、ならば私からも。必ず頭蓋骨を叩き割られてやります。必ずです。はみでた脳味噌は、アルジャーノンにお供えしてください」
 「ぬぐああああ!!」
 「私の! 私のです!」
 七海は、ウルが自分の携帯を床に叩きつけようとするのを、腕にしがみついて必死でとめた。お気に入りの黄色のそれを、ウルの手からもぎ取ると十崎に向かって叫んだ。
 「聞こえてましたよ、十崎さん! いったい、何をやらかしたんですか? 盗んだって何をです?」
 「あなたの心です」
 「殺す!」
 「……突然ですが、お別れです」
 「逃がすかっ! 脳味噌はみでたところを写真に撮って、バンコクの交通安全掲示板に貼り出しますよ!」
 「いえ、学校をやめるという意味です」
 「……は?」
 「九城もやめるんじゃないですかね」
 いつもの淡々とした口調から、本気の匂いを嗅ぎ取った七海は、リノリウムばりの床に足腰の力を吸い取られ、しゃがみ込みそうになった。
 「いったい、何を言い出すんですか?」
 失笑するふりをしながらも声が震える。
 「僕は正体がバレちゃいましたし、僕がいなくなったら、九城は僕を見張るために、大学に来る必要がありません」
 「見張るって……」
 「国際美術品密輸防止会議という、団体がありましてね。九城は僕を見張るため、そこに雇われた傭兵です」
 「密輸……傭兵……」
 視界が、蒼い紗膜に覆われた。
 真っ白になった七海の頭に、聞き慣れない単語がこだまする。
 自分の顔から、血が引いていくのがわかった。
 地面が歪む。
 ちがう。
 七海の体が、よろけたのだ。
 「その団体の中には、京都大学の学長の名もあります。九城の籍は、この学校にありません」
 スピーカーの向こうからかけられた、非日常という名のくすんだ色のペンキが、無慈悲に心のキャンバスを侵食していく。日常が、あっと言う間に崩れていく。
 「僕は仕事で、必要な鑑定眼を養うために……」
 「聞きたくありません! 聞きたくありません!」
 七海は金切り声をあげた。両目から涙があふれる。
 「そんなこと、言わなければいいじゃないですか。黙って今まで通り……。私は何も聞いてません! サークルはどうなるんですか!?」
 今度は、十崎が押し黙る番だった。
 静寂の中、七海のしゃくりあげる音が悲しく部屋に響いた。
 ウルの視線を感じながら、七海は続ける。
 「私……皆には黙ってたけど……勉強とクイズばっかりやってて……。友達もろくにいなくて…… 出来てもすぐにいなくなって……この学校に入って、やっと仲間を見つけることができたのに……一人にしないでください、責任取って下さいよぉ」
 「……やっぱり、駄目ですか」
 十崎は、独り言のように呟いてから続けた。
 「まったくあなたという人は……興ざめです」
 そういう十崎の声は、優しかった。
 「あなたは、別の意味で私の同類です。生い立ちのせいにはしたくありませんけど、僕は小さい時分から、親にアザだらけにされて育ったせいか、心の大事な部分のどこかが壊れてしまってるんでしょうね。死にそうな時しか、生きている感じがしないんですよ」
 「ペシュメルガ……『死の淵を渡る者』」
 ウルの呟きが、狭い室内に響く。
 「あなたは京大生で、高校生クイズの準優勝者。なんでもそうですが、超一流の領域に入るヤツらは、オタクかイカレのどちらかです」
 七海の嗚咽の中、十崎の声が続く。
 「残念ながら、よくも悪くもそういう人種は、コワれた生き方しか出来ない。選択肢がないんですよ……ミズ・ウルマ。携帯番号を」
 七海は、とうとうへたり込んでしまった。
 自分は今、何に絶望したんだろう。
 仲間を失うことか。それとも……薄々自分でも気付いていた、十崎の指摘にか。
 この先も訪れるであろう、誰に囲まれても満たされることのない孤独にか。
 「あなたには、何も言わずに去りたくなかった」
 七海は、とうとう声をあげて泣き出した。
 ウルが叫ぶ携帯の番号を聞いてから、十崎は続けた。
 「それと……一度あなたとスフィンクス・ゲームをしてみたかった。それだけが、心残りです」
 七海の泣き声が、ピタリとやんだ。
 のどの奥で、小さくしゃくりあげる音だけが、傾き始めた太陽が照らす談話室に響く。
 「……十崎さん」
 今までと、打って変わって、触れれば凍てつきそうな押し殺した声が、床を転がった。
 「どこまで、私の過去を調べたんですか?」
 「心配しないでください。誰にも言うつもりはありません。念のため、横にいる女に、私の携帯番号を伝えてください。それではまた来世で」
 無機質に響く、ツーツー音を七海は呆然と聞いていた。
 「いったい……なにが」
 七海は困惑し、瞬きを忘れた目をウルに向けた。
 ウルは暫く七海を見つめていたが、低い声で話し始めた。
 「アイツは、一年前、クルディスタン……イラク北部で民兵をやっていた。詳しい経緯はしらないが」
 「民兵……密輸の次は民兵?」
 七海が唇を震わせた。
 「ギリシャ神話の、エウリュディケを知っているか?」
 七海は眉根を寄せた。回りくどい話方に、付き合う気分じゃない。
 だが、違った。
 七海が返事しないのを、知らないからだと勘違いしたウルは続ける。
 「あの世まで、死んだ妻を連れ戻しに来た彼女の夫は、冥府から妻を連れ帰っていい代わりに、地上に出るまで振り向いてはいけないと言う約束を、地獄の神と交わした。あと一息というところで、夫は無言のプレッシャーに負け、振り向いてしまい、妻はあの世に引き戻された……クルディスタンで背後から、素手で敵の頚骨をへし折るのを得意としていた……」
 七海は血の気が、顔から引いていくのが分かった。話を制止しようとした。耳をふさごうとした、。
 どちらも間に合わなかった。
 「冥府からの声と、呼ばれたキラー。それがあの男……アウルディーだ」
 耐えられなくなり、七海はしゃがみこんだまま、机の脚にしがみついた。
 七海は俯き、思考を止めようとした。
 別のことを考えようとした。
 そうだ、高校時代の、つらかったことを思い出そう。
 ひとりぼっちで、昼ごはんを食べていたあの頃を。
 惨めで、一番嫌だったあの頃を。
 あの毎日に比べれば、どんな事だって……
 うまくいかなかった。
 「あなたのために言わせてもらうが、アイツは殺しても、胸の痛まない獲物を求めて彷徨っていた狂人だ。関わるべきじゃない」
 「見たんですか?」
 七海が俯いたまま、唐突に言った。
 「あなたはそれを、その目で見たんですか?」
 ウルは、しばらく間を置いてから言った。
 「いや。伝聞だ。ただし」
 七海が、何か言おうとしたのを遮る。
 「私の村の者に、嬉しそうにそれを話していたのは、彼自身らしいが」
 ウルが続ける。
 「今、私が滞在している村のものが、アイツにあるものを贈った。私はそれを買い取らせてもらうためここに来た。後は聞いての通りだ」
 ウルはこれ以上話せない、とばかりに言葉を切った。
 暫く、虚空に焦点の合わない視線をさまよわせていた。
 「つまり……あなたが……」
七海は、震える声で呟いた。
 「あなたがこなけりゃよかったんじゃないですか! 狂人呼ばわりするくらいなら、わざわざ飛行機に乗って! 贈り物を買い取る? 反則じゃないですか! 毎日、楽しかったのに、こんなに楽しかったのはじめてだったのにッ!」
 ピントのずれた怒りをぶつける。だが、迸る激情は、正論以上の正しさを持ってウルを圧倒した。
 ウルは眼を逸らした。
 「すまない」
 「すまないじゃすまないッ! 十崎さんと、九城さんを返してください、大事な、大事な毎日を、返してください!」
 「……私が言えた義理ではないが、あなたの気持ちは、痛いほど分かる。私も、またこの国で一人だったし、今も一人だ。この国に父はいるが、同年代に、囲まれての孤独感は消えなかったよ。いつか、イラクの子供達が言っていた。日本では、若者の自殺率が非常に高い、という話をしていた時だ。あんな豊かな国で、自殺するだなんて……。ぼくたちも大変だけど、日本の子たちも大変なんだね……と」
 七海の、瞬きが止まった。
 「孤独は、いつどんな場所であれ、人の心を蝕むおそろしい毒だ……だが」
 ウルは、決然と視線を上げた。
 「ミズ。あなたの学生生活に、影響を与えてしまったことを、非常に残念に思う。だが、私もやめるわけにはない。 生半可な気持ちで、この国に来たワケじゃないんだ。だが、どうしても腑に落ちない点がある。私はあなた達に、何も言うつもりは無かった。やつは何故、自分からあなたに告白した? たとえば、私がばらしてからでもよかったはずだ。なぜあなたのそばに、私を呼び寄せた?」
 「……分かりません」
 ウルは、別の椅子に置いていたバッグを、肩にかけながらいった。
 「いずれにせよ、終わったことだ。あなたはもう、かかわらない方がいい」
 「待ってください! もっとちゃんと説明してください!」
 「必要ない」
  ウルは、にべもなかった。ドアに向かって歩きながら、ウルはいった。
 「マッサラーマ。あなたの学生生活が、実り多いものであることを祈ってます」
 「いきなりやってきて、人の日常を壊しておいて、勝手なこと言わないで下さい!」
 「なら、あなたも戦え」
 ウルはドアノブに手をかけながら、七海の目を真っ直ぐに見た。
 「あなたの欲するものを……日常を取り返すために。我らクルドはまさしくそのために闘っている」
 「……っ、突然、そんな、理不尽です!」
 ウルはもう、視線を逸らさなかった。
 「ミズ、あなたも、わかっているはずだ。私のことは、きっかけに過ぎなかったと。起こるべくして起きたことだと」
 七海は言葉を失った。
 図星を言い当てられ、喉に絡まった言葉が喘いでいる。
 「理不尽といったな。知らなかったのか? いやそんなはずは無い」
 ウルは眉根を寄せ、いっそ官能的にさえ見える、辛そうな表情で、長い睫毛を伏せた。
 「闘いが始まるのは、いつも突然で、理不尽だ。そうでない戦いを私は知らない。ただ……」
 扉を抜けた、ウルの言葉のみが室内に留まった。
 「私が押し付ける側に、まわる日が来るとはな」
 
 九城は、路肩に寄せた二五〇CCの愛車ににまたがったまま、深呼吸をした。
 イエス、ジーザス、ラブズ、ミー
 ホンマかいな。
 携帯から流れる、ホイットニー・ヒューストンの高い歌声が、夕闇の迫る虚空に吸い込まれていく。
 半ヘルとゴーグルを外し、歌い続ける携帯の、イヤホンについている、通話ボタンを押す。
 「聞いてましたね、九城」
 「あら、バレとった?」
 ファミコンの、カセットの中に仕掛けた、盗聴器の存在が。
 「無駄な説明を省きたいから、カバンに入れなかったんです」
 「……そっか。俺のこと、何時から気付いとった?」
 二人は、出会って以来、初めて正面から向き合った。
 「会って、二カ月くらいたってからですかね」
 「ひよこちゃんトコに、転がりこませてもろうた頃か。じゃあ一年近く、泳がせとったんや。何のつもりや?」
 「……美夜子がね」
 「……そっか」
 「あなたのことを気に入ってたし、すごく気にかけてましたから。冬なんかどこで寝てるのか、すごく気にしてましたよ」
 「敵わんな、あの子には」
 「一つ聞きたいんですが」
 十崎が静かに聞いた。
質問の内容は分かっていたし、返答如何で、自分が知っている個の中では最強の暗殺者に、首を狙われることも理解していた。
 「美夜子に近づいたのは、利用するためですか?」
 だが躊躇は無かった。答えは決まっていたからだ
 「まったくなかったとは言い切れへん。ちょうどええかもな、確かにそう思った」
 「……」
 「その上、危うくあの娘を、殺してまうとこやった」
 九城の脳裏を、今も必死で眼を逸らし続ける、記憶がよぎる。
 握り締めた拳を、弓のように引き絞るその先には……
 九城が、妹のように可愛がっていた、しっかり者で心優しい女の子の、恐怖に歪んだ表情があった。
 死んだら、許してくれるだろうか。
 また、笑いかけてくれるだろうか。
 自分の記憶って奴には、パンチもチョークも効かんから、逃げ回るしかない。
 「だから俺は、自分が許されへん。十崎、俺を殺るときは、ひよこちゃんの為や言うてくれ」
 九城は、力なく笑って続けた。
 「抵抗はせんよ」
 「早く楽になりたいんですか? 美夜子の家を出て、ちっとも良くなってないじゃないですか」
 「……」
 「自殺の手伝いに、僕を利用するのはやめてください。夕佳さんは、どうするんですか? 姉から彼女に、ジョブチェンジしたばかりなんでしょう?」
 九城の後で、バカでかいクラクションが、苛立たしげに吠えた。
 だが九城は、またがったバイクのタンクの表面をただ見つめていた。
 「俺は……」
 「小僧、耳ついとんかあ!」
 あきらかにスジモノらしい、派手なスーツを着た中年が、センチュリーの運転席から降りてきた。九城のバイクが邪魔で、スナックの前に路上駐車が出来ないのだ。
 「あなたは、美夜子のことを妹のようにかわいがり、美夜子はあなたのことを、今でも兄のように慕っています。 あの時の事は……」
 「兄貴はお前やろ。十崎」
 「オイ、こっち向けや小僧」
 細身でチョビひげをはやし、サングラスをかけた男が、うなるようにいい、九城の肩を小突いた。
 わずかに体が揺らいだ、九城の姿勢はそのままだ。
 「贖罪代わりに、美夜子の事を、お願い出来ませんか」
 九城の無理な作り笑いから、吐き出される言葉は震えていた。
 「お前がおるやろ、十崎。なんて言われても、俺には無理や。あんな事しといて、もういっぺんひよこちゃんに会う度胸なんかないわ」
 「何シカトこいとんじゃ、ボケェ!」
 九城は胸倉を掴まれ、上を向かされた。至近距離から、九城の目を覗き込んだ男は怪訝な表情を浮かべた。光のないその目は、何も見ていないのだ。
 「九城、うるさいです」
 「あ、わりぃ」
 無造作に、左手で胸倉を掴み返した九城は、男の顔を正面まで持ってくると、右手を振った。
 「……へごっ!?」
 右フックをくらった男は、確実に顎と奥歯がくだけた手ごたえを残して、道路の真ん中まで吹っ飛び、急停車したタクシーにぶつかった。
 「九城。この件から手をひいてくれませんか。僕は今夜、楽しもうと思ってるんです」
 「……十崎。この件だけ手をひいてくれへんか。もう大佐の仕事は、受けへんからさ」
 首をひねって、後ろの車から降りてきた、新手の二人をぼんやり眺めながら、九城は言った。
 「どこまでも、平行線みたいですね。たとえ九城でも、僕の楽しみを邪魔したら命はありません。警告はしましたよ……マッドドッグ・ジェイソン」
 十崎は、九城の通り名を初めて口にした。それは別れの言葉だった。
 何もかも知ってたんやな、お前。
 「そのカセット、間違ってもひよこちゃんに渡すなよ」
 通話の切れた携帯のイヤホンを外し、バイクから降りると、ドライビンググローブをはめた手を開閉して、軽く首を回した。
 「……さて悪いけど」
 徐々に光が戻りはじめた眼で、トランクから得物をとりだしている男達に、視線を飛ばす。
 ドクン、と言う心臓の鼓動に押し出された血液が、軽い頭痛とアドレナリンをもたらした。
 全身の筋肉が、空気を入れたゴムタイヤの様に、膨張していくのが分かる。
特異体質なのか、九城の筋肉の膨張率は、尋常ではない。普段からルーズファッションなのはそのためで、体格が文字通り、一回り大きくなるのだ。
 握り締めた鉄拳に、瘴気と狂気が集中していく。
 鼻腔に蘇る匂いは、ディーゼルの黒煙、突撃銃の硝煙。
 全身の血管を、イラつきで脈打たせながら、『六人殺しの狂犬』は言った。
 「俺の八つ当たりに、付き合えや」
 
 九城はバイクにまたがると、エンジンに火を入れた。
フロントガラスに、顔をメリこませたスキンヘッド、飛び膝で、顔の真ん中をへこまされて、痙攣している長髪の若者。
 新たな二人の犠牲者には目もくれなかった。
 顔についた、返り血をぬぐいもせず、九城はつぶやいた。
 「十崎……俺ら死ぬまでこんなんか?」
 九城は我知らず、虚ろな笑みを浮かべている、自分に気づいた。
 まあいいか。
 どうせ、今日死ぬ公算が高いのだから。
 それはそれで、悪い事ばかりじゃない。
 眠れない夜達の、長い長い手から、逃れる事が出来るのだから。
 悪夢に脅え、眠りの精が訪れるまで、当て所もなく町を彷徨う、孤独な夜から解放される。
 九城は迷いを振り切る様に、アクセルをふかす。
 墓の下なら、夢も見ずに眠れるだろう。
 蛮人を玉座に頂いた、血のような赤色のバンディットは、犠牲者とギャラリーを残し、弾かれたように飛び出した。
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